争いを呼ぶバベルシステム
サイエンスでいうなら、生物の目的とは子孫を残すことなのだから、その目的に反する同性婚は積極的に否定されなければならない。
気心のしれた身内にこぼす程度ならいざ知らず、不特定多数に向けてこんなことを豪語しようものなら、大変なことになる。
実際にtwitterで上の文章を書きこんでいた人はフルボッコにされていた。
こうした発言は争いを呼びやすい。何故か?
内容が内容だけに差別的だというのがあるけれど、今回、着目したいのはそこではなく、この発言の背景に潜んでいる争いを生みやすい構造。
個人的にその構造のことをバベルシステムと呼んでいる。今回はそのバベルシステムが具体的にどういったものか、どうすればバベルシステムに囚われず不要な争いを避けられるかについて書いていきます。
まず冒頭の発言について「サイエンス」という言葉について考えてみると、これは実は物凄く解釈の広い言葉。下手をすると人の数だけ異なる「サイエンス」があってもおかしくない。
解釈の幅が広いということは、ある人の解釈とある人の解釈に大きな差が生まれやすいということ。解釈の幅が広い言葉を使う時は、自分の解釈をそのまま相手も同じように受け取ってくれるかというと、そんなことはない。
そうした警戒心を持てないと、身の回りで争いが絶えなかったりする。
何かを主張する時、何も考えずにこの例における「サイエンス」のような解釈の幅が広い言葉を正当性の根拠にするのは危険。
この例の場合、「サイエンス」という言葉の意味はとても曖昧で、だからその分、多くの「私が考える最も正しいサイエンス」を掲げる人達が現れた。
次に起こったのは、「私が考える最も正しいサイエンス」を掲げる人達同士の潰しあいだ。
ある人は同性婚を否定したくて、「生物の目的は子孫を残すことだ」と言う主張に正当性を与えるべく「サイエンス」を持ち出した。
ある人は同性愛者への差別に反発するため、子供を持てなかったり持ちたくないと考える個体が一定数現れるのが「サイエンス」においては当然だと主張した。
どっちも同じ「サイエンス」。五文字の片仮名。けれどその意味するところは全く違う。つまるところ「サイエンス」なんて目的次第でどうにでも解釈できる曖昧な言葉。
けれど当人たちは自分の掲げるサイエンスこそが真のサイエンスだと信じて疑わなかった。そして延々と潰しあいを繰り広げた。
こうした形で人を争いに駆り立てる構造がバベルシステムだ。
以上の内容を踏まえながらバベルシステムについて一言でまとめると、
「何かを主張する時に、その主張の正当性を解釈の広い言葉に求めることで互いの解釈にズレが生じ、主観と主観のぶつかり合いが起きやすくなる構造」
となる。
争いの根底にバベルシテムが潜んでいるケースはとても多い。特に物理要素よりも言語要素が主体のネット上における言い争いにおいては。
では次にどうやってバベルシステムを回避するかについて。
争いが起きそうな時、あるいはまさに争っているその時、まずは自身がバベルシステムに囚われていないか疑うことが第一歩。
そしてバベルシステムに囚われている可能性があると思ったら、上述の例における「サイエンス」に該当する言葉を見極めること。
具体的には、主張の正当性に深く関わっていて、しかも解釈の幅が広い言葉がどれなのか考えることがとても大事。ここからは便宜的にそうした言葉を「バベルワード」として話を進めていきます。
そしてバベルワードを把握したら、まずはその解釈について徹底的に自分と相手でどこがどう違うのかを比較すること。
バベルワードについて、相手と自分が、何故そのように解釈したのか、どこで解釈にズレが生じたのか徹底的に掘り下げることが無益な争いを遠ざける。
上述の例においても、まずやるべきは「サイエンス」の意味について解釈を共有することだったと思う。それを行わずに潰しあっても、お互いがお互いの「サイエンス」という「正しさ」を持っている限り、互いに折れることはなく議論は永遠の平行線をたどる。
とにかくなりふり構わず「サイエンス」の解釈について共有することを目指せばよかったのだと思う。そのプロセスをすっ飛ばして潰しあうのは最悪。そのプロセスを経てなお潰しあうのは良い事ではないけれど、最悪と比べたら圧倒的にいい。
一番いいのは共有に至ること。次にいいのは共有は不可能だと諦めて互いに棲み分けをすること。
以上が現時点で自分が考え得るバベルシステム対策。
ちなみにバベルシステムの語源については旧約聖書の「バベルの塔」に関する記述から。
バベルシステムが適用できるケースは至るところに転がっているし、関連づけて考えられる題材も多いと思う。
追記:要するにバズワードの話。