五月楼

一年中五月病。

体感としての不確定性

不確定性から考える科学とオカルト

 

 気温には、温度計で測定する「実際の気温」と肌で感じる「体感としての気温」があって、前者は客観的だが、後者は主観的で観測者の状態によって変わってくる。

 

 たとえば南極の寒冷な環境に適応したイヌイットの人たちは日本の気候を暑いと感じるだろうし、一方、ナイロビのような赤道直下の暑い環境に適応した人たちは寒いと感じるだろう。

 

 気温と同じように不確定性にも二種類あって、「実際の不確定性」と「体感としての不確定性」があるのだと思う。

 

 実際の不確定性を排除することに全力を注ぐのが科学であり、体感としての不確定性を排除することに専念する一方、実際の不確定性はどうでもいいのがオカルトなのだと思う。

 

不確定性への嫌悪 

 

 人間は本能的に不確定性を嫌う。理解できないもの、正体がわからないものは恐ろしいし、気味が悪い。

 

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるが、これはどういうことかというと、幽霊という不確定性の権化とも言うべき存在が、正体を明らかにされたことで、恐怖の対象ではなくなる感覚を表現している。

 

 実際のところ、幽霊は正体を暴かれる以前も枯れ尾花であったし、正体を暴かれた以降も枯れ尾花であったのだが、そんなことは関係がない。

 

 不確定性を纏っているものは、恐ろしいし、不快だ。何故なら、どんな事態を引き起こすかわからないから。何が起きるか予測できなければ、最悪の事態を想像して震えることになる。人間の想像力はポジティヴ方向よりもネガティヴ方向において強く発揮される。

 

心の在りようを決めるのは、どちらの不確定性か

 

 だから人間は不確定性を排除したがる。恐怖に震えながら眠れない夜を過ごしたがる者などいないから。

 

 その時に問題となるのは、実際の不確定性ではなく、体感としての不確定性だ。

 

 体感としての不確定性さえ排除できたなら心の安寧を得られるし、逆に実際の不確定性をどれだけ排除したところで、体感としての不確定性が強いままなら、苦痛は永遠に消えない。

 

 占いは実際の不確定性を排除しないが、体感としての不確定性を排除する。

 

 たとえば今時、そんな人いないかもしれないが、おみくじを心の底から信頼している人がいたとする。その人が神社でおみくじをひいたら、大吉が出た。これは嬉しい。

 

 その嬉しさは一体どこから来ているのか。確かに大吉というポジティヴな未来予測に嬉しさを感じるという面はあるだろう。だが、それだけだろうか。

 

 やはり未来という不確定な事象から不確定性が取り除かれ、最悪の事態を想像して恐怖と不安に苛まれる状況から解放された安心感が、嬉しさの大半を占めているのではないかと思う。

 

 しかし、冷静に考えてみると、確かにおみくじを引いたことで、体感としての不確定性は十分に排除されたが、実際の不確定性は排除されていない。

 

 おみくじでどれだけ素晴らしい結果が出ていようと、未来が本当に素晴らしいものになるとは断言できない。それにも関わらず、おみくじで大吉をひいた人の心はとても晴れやかだ。

 

科学者の怠慢

 

 多くの科学者は、実際の不確定性を排除することにかけてはエキスパートだが、体感としての不確定を排除することにおいては素人以下なのだと思う。

 

 その点において、宗教や代替医療疑似科学の専門家は強い。

 

 水からの伝言を科学的見地から笑い飛ばすことはいくらでも出来るが、これだけ多くの人々が水に向かって感謝の言葉を囁いて微笑んでいる状況は決して笑えないと思う。

 

 おそらく「体感としての不確定性を相手から排除する行為」を有用な技術として認識することが必要なのだと思う。それがたとえ実際の不確定性排除においては何の役に立たないとしても。

 

差分を評価する

 

 実際の不確定性と体感としての不確定性が大きくずれている状態は望ましくない。

 

 「教団に財産を全て喜捨すれば幸福になれますよ」という言葉を信じてしまった人は「実際の不確定性>体感としての不確定性」といった状況に置かれている。つまり、この先、何が起きるか分からないにも関わらず安心してしまっている状態だ。

 

 将来、本当に幸福になれるのかどうかという話は、過分に曖昧で複雑で不確定性の高い話で、慎重かつきめ細かい対応が必要な問題だ。

 

 しかし、財産を教団に捧げさえすれば幸福になれるだろう、という思い込みによって体感としての不確定性が不当に下げられてしまっているため、本人は適切な慎重さをもって事に当たることが出来なくなっている。

 

 こうした状況は、不慮の事態が起きた時、当人に降りかかる精神的、物理的なダメージが倍増する危険がある。

 

 適切な医療を受ければ確実に助かるところを、代替医療に走った結果、命を落としてしまうようなケースは「実際の不確定性<体感としての不確定性」と言える。未来の見通しが立っていて不安になる必要がない場面で過度に不安になってしまっている状態だ。

 

 スティーブ・ジョブズは手術を受ければ助かった確率が高かったという。つまり「手術を受けたとして助かるかどうか」という命題において、実際の不確定性は低かった。

 

 しかし、ジョブズの体感としての不確定性は高いままで、そのため手術を受けることに抵抗し、結果としてジョブズは助かるはずだった命を落とした。

 

 実際の不確定性と体感としての不確定性がどの程度一致しているのかを評価するのは難しい。現状、不確定性などという極めて抽象的なパラメータを客観的に評価する手段はない。

 

 ただ、不確定性が二種類あること、その二つが著しく解離した状況を放置しておくと悲劇につながりかねないという認識は、もっていて損になることはないと思う。