五月楼

一年中五月病。

魔法としての正義

 

 自分の正義をしきりに力説する者すべてに、信頼を置くな!

 

―――フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

 

 正義とは何か。誰も彼もが、その時々の都合に応じて、身勝手な正義の解釈を掲げ、己の利権を声高に主張する。従って、少なくとも普遍的な善悪の基準とは言えないだろう。

 

 もしかすると、正義とは、誰かにかけてその心を支配する魔法や呪いのようなものではないか。

 

 ある時そう思った途端、まるで指輪物語ゲド戦記の世界に迷い込んだかのような気分に陥り、不思議な昂揚感に囚われた。

 

 それ以来、どうすれば効果的に正義の魔法を人にかけられるのか、どうすれば魔法にかけられずに済むのか、かけられた魔法を無効化する方法は果たしてあるのか、人と人との間で起きる様々な現象について、いつもそんな方向から考えている。

 

 今回は自分が考えるところの正義について力説していきたい

 

エゴの調整機構

 

 生物は細胞の集合体であり、細胞の一つ一つはどれも「分裂して増殖していきたい」というエゴを持っている。しかし、全ての細胞が無分別に増殖し始めた暁には、細胞集団全体が共倒れして全滅することになる。

 

 全身の細胞が癌細胞に置き換わったとして、生き続けられる生物はいない。

 

 だから、それぞれの細胞は周囲と折り合いをつけるために、自らのエゴを抑制する。

 

 細胞分裂にブレーキをかけるCDK阻害因子、分裂回数を制限するテロメア遺伝子、不要な細胞を間引くアポトーシス……etc

 

 これらの仕組みは各細胞の増殖を適切なレベルまで抑制し、全体の調和を保っている。

 

 人間社会の構造はこうした生物の在り方と相似形だ。

 

 細胞が集まり、調和している状態が生物であるなら、個人が集まり、調和している状態が社会なのだと思う。

 

 社会を構成する全ての個人が際限なくエゴを解放したなら、その社会は瞬時にディストピアと化すだろう。そこで、そうならないよう人も細胞と同じようにエゴを抑制することで、周囲と折り合いをつける。

 

 細胞のエゴは、CDK阻害因子、テロメア遺伝子、アポトーシス等の仕組みによって抑制される。

 

 では、人のエゴは何によって抑制されるのか?

 

 人のエゴを抑えるのは罪悪感だ。罪悪感によって人のエゴは抑制され、逆を言えば罪悪感の心理的拘束から抜け出すことで、初めて、人は他者にエゴを押し付けることができる。

 

 罪悪感は生得的なエゴの調整機構であり、人と人との関係性を決定する諸要素のうち最重要項目と言っても過言ではない。

 

正義とは

 

 正義とは「罪悪感をコントロールする力を宿した何か」なのだと思う。

 

 正義は人の罪悪感を制御することで、間接的にそのエゴの発現を制御する。正義の扱い方を熟知することは、人を支配する方法、そして人に支配されない方法を熟知することに等しい。

 

 罪悪感を強化するのか、減じるのか。無に還すのか、あるいは怒りへと反転させるのか。誰に効き、誰に効かないのか、持続時間はどの程度なのか、解除条件は何なのか。

 

 分類のアプローチ次第で無数の種類がある正義ではあるが、しかし、現実の場で運用されているものとしては、ほとんどが大きく二種類に分けられる。 

 

 一つは自己バフ型。所謂、大義名分。エゴを心おきなく解放したい時に、自身にかけることで罪悪感の縛りを解除するもの。

 

神の名の下に貴様を火炙りにしてやる」

イヤよイヤよも好きのうちってね^^」

「これから空爆してお前らのとこの民間人を数千人殺すが、それはお前らが、こちらの国の少年を3人も殺害したからだ

 

 もう一つはスペル型。相手の罪悪感を喚起・強化することで思考・行動の自由を奪い、エゴを抑え込む目的で使われるもの。

 

もう会ってくれないの……? ねえ、何とか言ってよ!」

「殴ったね! 親父にもぶたれたことないのに!

「この紋所が目に入らぬか!」

 

 この二種類に大別できるというだけで、実際には、一つの正義が別々の立場にある者に対して、異なる効果を与えるようなケースもある*1。たとえば、

 

人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね……

 

 という名言があるが、これは恩師の命を救えなかったブラック・ジャックの罪悪感を軽減するために、恩師本人である本間丈太郎が、死の間際、ブラック・ジャックに遺したものだ。

 

 この言葉をブラック・ジャックではなく、生命科学の研究者に向けて投げかけたとしたら、全く逆の効果を生むことになる。

 

 正義を上手く扱うためには、その正義が誰に対してどのような効果を及ぼすか、広い視野で把握していなければならない。ここに正義を扱うことの難しさがある。

 

 また、正義は常に言葉の形態をとるとは限らない。上に挙げた紋所のような例もあるし、「雨に濡れた子犬」といったシチュエーションですら、見捨てようとした者に罪悪感をもたらす点から正義と言える。

 

 正義の形も様々であり、そのこともまた、正義の扱い方を考えていく上で、問題を複雑化させる一因となっている。

 

 数珠か十字架か

 

 正義を扱う上で、特に見落としてはならない要素がある。それは内面化の深度だ。正義の魔力はその正義を内面化した者にしか通じないし、また、魔力の効き具合も内面化の深度に比例する。

 

 たとえばドラキュラは十字架に弱いが、これは何故かというと、ドラキュラがキリスト教圏の怪物だからだ。ドラキュラはキリスト教という正義を強く内面化している。

 

 ドラキュラは、自身が内面化しているキリスト教の価値観において、己の存在が邪悪であることを自覚している。それだからこそ、十字架を翳されることで、ドラキュラは強烈な罪悪感に悶え苦しむ。

 

 しかし、キリスト教のキの字も知らない日本の妖怪に対して、十字架を振りかざしたところで、何の効果もないだろう。日本の妖怪には、日本の妖怪が内面化している正義をもって立ち向かわなくてはならない。たとえば数珠であったり、お経であったり。

 

 決して、ろくろ首や一つ目小僧を前にして、必死に十字架を振り回すような醜態を晒してはいけない。

 

 効果的に正義を運用するためには、事前準備として、正義の魔法をかけたい相手が、どのような正義をどの程度内面化しているのか把握しておく必要がある。それから適切な正義を選択して運用しなければならない。

 

 また、どうしても特定の正義を使用することに固執するのであれば、場合によってはその正義を相手に内面化させる努力から始める必要があるだろう。

 

 傘お化けを十字架で倒したければ、まず、傘お化けにキリスト教の教えを説き、洗礼を施さなければならない。

 

何を見るべきか

 

 ここまで自分が考える正義について、エゴ、罪悪感との関係を軸に語ってきたが、この中で最も注視すべきなのは罪悪感だと思う。どうしても正義に目が行きがちではあるのだが。

 

 罪悪感はエゴとも正義とも直接的に結びついており、上で語ってきたエゴ調整系における中心的な要素と言える。

 

 どんな正義を内面化しているのか、内面化の深度はどれくらいか知りたければ、罪悪感を見るのが一番いいし、彼我のエゴの圧力差を測る際も、まずは罪悪感に着目するのがベストだと思う*2

 

 人間社会とは、至るところで、正義の魔法が七色の火花を散らす戦場のことだ。

 

 そんな場所で無防備に立ち尽くしていたなら、一瞬で黒焦げとなりかねない。相手に魔法をかけることよりも先に、己が魔法にかけられずに済むための術を身に着けなければならない。

 

 そのためにも、まずは自身の罪悪感がどのようなメカニズムで生成消滅しているのか把握し、それが行動にどう影響しているのか見極めていく必要がある。

 

 そうして初めて、どの正義を捨て去り、どの正義を内面化し、どの正義をどのように駆使することで、より快適で生きやすい環境を構築できるのかが見えてくるものだと思う。

 

*1:というか、ここに挙げた例も含め、全ての正義がそうしたものではある。本当はグラデーション的に捉えるべきだし、この二分類もあくまで便宜的なもの。

*2:そこで正義にばかり目を向けているが故の泥沼というケースは非常に多い

体感としての不確定性

不確定性から考える科学とオカルト

 

 気温には、温度計で測定する「実際の気温」と肌で感じる「体感としての気温」があって、前者は客観的だが、後者は主観的で観測者の状態によって変わってくる。

 

 たとえば南極の寒冷な環境に適応したイヌイットの人たちは日本の気候を暑いと感じるだろうし、一方、ナイロビのような赤道直下の暑い環境に適応した人たちは寒いと感じるだろう。

 

 気温と同じように不確定性にも二種類あって、「実際の不確定性」と「体感としての不確定性」があるのだと思う。

 

 実際の不確定性を排除することに全力を注ぐのが科学であり、体感としての不確定性を排除することに専念する一方、実際の不確定性はどうでもいいのがオカルトなのだと思う。

 

不確定性への嫌悪 

 

 人間は本能的に不確定性を嫌う。理解できないもの、正体がわからないものは恐ろしいし、気味が悪い。

 

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるが、これはどういうことかというと、幽霊という不確定性の権化とも言うべき存在が、正体を明らかにされたことで、恐怖の対象ではなくなる感覚を表現している。

 

 実際のところ、幽霊は正体を暴かれる以前も枯れ尾花であったし、正体を暴かれた以降も枯れ尾花であったのだが、そんなことは関係がない。

 

 不確定性を纏っているものは、恐ろしいし、不快だ。何故なら、どんな事態を引き起こすかわからないから。何が起きるか予測できなければ、最悪の事態を想像して震えることになる。人間の想像力はポジティヴ方向よりもネガティヴ方向において強く発揮される。

 

心の在りようを決めるのは、どちらの不確定性か

 

 だから人間は不確定性を排除したがる。恐怖に震えながら眠れない夜を過ごしたがる者などいないから。

 

 その時に問題となるのは、実際の不確定性ではなく、体感としての不確定性だ。

 

 体感としての不確定性さえ排除できたなら心の安寧を得られるし、逆に実際の不確定性をどれだけ排除したところで、体感としての不確定性が強いままなら、苦痛は永遠に消えない。

 

 占いは実際の不確定性を排除しないが、体感としての不確定性を排除する。

 

 たとえば今時、そんな人いないかもしれないが、おみくじを心の底から信頼している人がいたとする。その人が神社でおみくじをひいたら、大吉が出た。これは嬉しい。

 

 その嬉しさは一体どこから来ているのか。確かに大吉というポジティヴな未来予測に嬉しさを感じるという面はあるだろう。だが、それだけだろうか。

 

 やはり未来という不確定な事象から不確定性が取り除かれ、最悪の事態を想像して恐怖と不安に苛まれる状況から解放された安心感が、嬉しさの大半を占めているのではないかと思う。

 

 しかし、冷静に考えてみると、確かにおみくじを引いたことで、体感としての不確定性は十分に排除されたが、実際の不確定性は排除されていない。

 

 おみくじでどれだけ素晴らしい結果が出ていようと、未来が本当に素晴らしいものになるとは断言できない。それにも関わらず、おみくじで大吉をひいた人の心はとても晴れやかだ。

 

科学者の怠慢

 

 多くの科学者は、実際の不確定性を排除することにかけてはエキスパートだが、体感としての不確定を排除することにおいては素人以下なのだと思う。

 

 その点において、宗教や代替医療疑似科学の専門家は強い。

 

 水からの伝言を科学的見地から笑い飛ばすことはいくらでも出来るが、これだけ多くの人々が水に向かって感謝の言葉を囁いて微笑んでいる状況は決して笑えないと思う。

 

 おそらく「体感としての不確定性を相手から排除する行為」を有用な技術として認識することが必要なのだと思う。それがたとえ実際の不確定性排除においては何の役に立たないとしても。

 

差分を評価する

 

 実際の不確定性と体感としての不確定性が大きくずれている状態は望ましくない。

 

 「教団に財産を全て喜捨すれば幸福になれますよ」という言葉を信じてしまった人は「実際の不確定性>体感としての不確定性」といった状況に置かれている。つまり、この先、何が起きるか分からないにも関わらず安心してしまっている状態だ。

 

 将来、本当に幸福になれるのかどうかという話は、過分に曖昧で複雑で不確定性の高い話で、慎重かつきめ細かい対応が必要な問題だ。

 

 しかし、財産を教団に捧げさえすれば幸福になれるだろう、という思い込みによって体感としての不確定性が不当に下げられてしまっているため、本人は適切な慎重さをもって事に当たることが出来なくなっている。

 

 こうした状況は、不慮の事態が起きた時、当人に降りかかる精神的、物理的なダメージが倍増する危険がある。

 

 適切な医療を受ければ確実に助かるところを、代替医療に走った結果、命を落としてしまうようなケースは「実際の不確定性<体感としての不確定性」と言える。未来の見通しが立っていて不安になる必要がない場面で過度に不安になってしまっている状態だ。

 

 スティーブ・ジョブズは手術を受ければ助かった確率が高かったという。つまり「手術を受けたとして助かるかどうか」という命題において、実際の不確定性は低かった。

 

 しかし、ジョブズの体感としての不確定性は高いままで、そのため手術を受けることに抵抗し、結果としてジョブズは助かるはずだった命を落とした。

 

 実際の不確定性と体感としての不確定性がどの程度一致しているのかを評価するのは難しい。現状、不確定性などという極めて抽象的なパラメータを客観的に評価する手段はない。

 

 ただ、不確定性が二種類あること、その二つが著しく解離した状況を放置しておくと悲劇につながりかねないという認識は、もっていて損になることはないと思う。

 

マジックワードについて

 

  世の中にはマジックワードというものがあって、条件を整えて効果的に扱えば、人の行動を支配する上で凄まじい威力を発揮する。

 

 ブラック企業で上司が部下に無理難題を吹っかけて押し通すような場面において、しばしば「成長」や「お客様のために」といったマジックワードが使われていることは周知の事実だ。

 

 しかし、使う者が使うことでマジックワードの底力が容赦なく解放されてしまった場合、事態はそんな生温いものでは済まされない。他人の人生を台無しにすることはおろか、下手をすれば誰かを殺すことさえ出来るのがマジックワードだ。

 

 マジックワードの効果的な運用法について、その防御策を考える上でも詳しく知りたいと思い、今まで色々なテキストにあたったり、考えたりしてきた。

 

 今回は現時点でマジックワードについて自分が思うことをメモ変わりに書いていきます。

 

 まずは理解を深めるための叩き台としてマジックワードが悪用されている事例の紹介を。

 

マジックワードの悪用例 

 

 某アイドルグループメンバーPのツイートから一部引用。Nは映像ディレクターとのこと。

 

 リハの前にNさんに呼び出された。なんのことかと思ったらおとといの君たちは中身がないってことを繰り返して言われた。昨日何を考えたか聞かれた。明日の新宿を埋めるために具体的に考えたか聞かれた。それについては確かに考えられてなかった。

 

  LIVEを明日に控えた状況で、PがNに呼び出される。用件は不明。しかし何故か精神的に追い詰められるようなことを言われ、困惑気味なP。

 

 今日Yahoo!ニュースになれば新宿は埋まるよねって言われた。Yahoo!ニュースかぁーってうーんって言ってたら『そこでお願いが1つある、今日のライブで全裸でダイブしてほしい』って言われました。夢か現実かわからなくなりました。

 

 Pが動揺する中、Nから出てきた言葉は、少なくとも現実感が失われるほど衝撃的なものだった。そこで、Pは何を思い、どう振る舞ったか。

 

でもNさんの言ってることももっともだしなんか本気だったから一瞬のっちゃいそうになった。今も横にNさんがいるけどずっと君たちはつまらないって話をされていれます。どうしたらいいのか実際問題よくわかりません。

 

 この件の結末は、他のメンバーが激怒して抗議することで、Nの思惑通りに事は運ばなかったとのこと。冷静な判断力を持つ者なら、反発して当然だろうと自分も思う。

 

 逆を言えば、何故、Pは全裸ダイブなどという、異常と言っても差し支えない指示に対して「一瞬のっちゃいそうになった」のか。

 

 LIVEを目前にした緊張状態という舞台設定や、メンバーの一人がインフルエンザで病欠中という不安定な状況を差し引いても、やはりマジックワードの影響が大きかったのではないかと思う。

 

マジックワードとは何か 

 

 この例におけるマジックワードはどの言葉か。それは「中身がない」と「つまらない」の2つ。

 

 この2つに共通する特徴は、定義が曖昧でどうにでも解釈し得るところだ。この特徴故にマジックワードを使う者は、自らにとって都合のいい解釈を相手に押し付けることができる

 

 また、マジックワードは思考停止ワードとも呼ばれる。これはどういうことかというと、マジックワードの魔力に魅入られた者は、その言葉の意味について理解する前に考えることを止めてしまうという性質があるからだ。

 

 この例においても、「中身がない」「つまらない」とは具体的にどういうことなのか知る前に、それをNに問う前にPは考えることを止めてしまっていた。

 

 そして中身がない状態から抜け出るために全裸ダイブをやるべきだ、というNの意見をもう少しで受け入れるところまで来てしまった。

 

 こうして見ると明らかにおかしいのだが、自分が当事者になったとして冷静でいられる人はそれほど多くはないと思う。Pの身に起きたことは、決して対岸の火事ではないと考えるべきだろう。

 

 以上の話から、マジックワードの特徴についてまとめると、

 

・使われた者の思考力を奪う

・定義が曖昧で使用者が自身にとって都合のいい解釈を相手に押し付けられる(この例の場合、中身=全裸ダイブ)

 

 の2点と言える。

 

 これ以外にも他に考えられるマジックワードの例としては、「愛」「夢」「幸福」「理性」「健康」「革命」「思いやり」「人間として」などがある。

 

 必ずしもそうとは言えないが、マジックワードとは、定義が曖昧でどうとでも解釈できると同時に、どこか綺麗で道徳的な雰囲気を纏っている言葉と言っても概ね差し支えない。

 

闇の魔術に対する防衛術

 

 では、どうすればマジックワードの驚異から身を守ることができるのか。

 

 まずは、マジックワードマジックワードと認識することから始めなければならない。

 

 要するに相手が抽象的な言葉を使い出したら注意すればいいだけの話ではあるが、大抵、マジックワードの暴威はこちらの精神が不安定な状況を狙って襲い掛かってくるもので、事態はそう単純ではない。

 

 普段からどのようなマジックワードが世の中にあり、どのような状況で、どのように使われ、どのような結果を引き起こしているのか観察しておくことが、いざという時に効いてくることは間違いない。

 

 相手がマジックワードを使っていることに気が付いたら、そのマジックワードの意味について自分で答えを出そうとしてはならない。何故なら、無駄だからだ。

 

 必ずマジックワードの解釈はマジックワードの使用者に任せること。使用者が自分から言い出すのを待つのがセオリーだが、場合によっては直接尋ねてみる必要もあるだろう。

 

 そして使用者の解釈を把握したら、その解釈を自分が受け入れた場合、誰がどんな得をして誰がどんな損をするのか考えることだ。

 

 上述の例の場合だったら、全裸ダイブという解釈をPが受け入れた時、誰が得をして誰が損をするのか、という話になる。本題から外れるので、ここではそれについて考察はしないが。

 

 当たり前のことだが、普通、使用者は自分にとって得になるような解釈を提示してくるものであり、その事実に自覚的であることが心の防壁となり、こちらの精神的な余裕を確保することにつながる。

 

 以上よりマジックワード対策をまとめると、

 

マジックワードについて普段から考えておく

マジックワードの解釈は必ず使用者に任せる

・その解釈を自分が受け入れた時に生じるであろう損得について考える

 

 となる。

 

 マジックワード対策において最も重要なのは、現実的な損得勘定の感覚を失ってしまわないよう、自身の精神的な余裕を守りきることだ。

 

魔力の源泉

 

 何故、マジックワードが人間から思考力を奪うことができるのか、自分の考えを述べていく。

 

 フレーム問題という人工知能研究における難問がある。詳しくはリンク先のwikiを読んで頂きたい。

 

 かいつまんで説明すると、あらゆる可能性を内包した状況において、ロボットが何かの目的を果たすために動く時、目的達成に関係した無限に在り得る選択肢を考慮しなければならず、有限な情報処理能力しか持たないロボットは動作を停止してしまうという問題だ。

 

 マジックワードに魅入られた人は、フレーム問題に直面した人工知能と同じ状態にあるのだと思う。

 

 マジックワードは定義が曖昧でどうにでも解釈できる言葉で、つまり下手をすれば無数に解釈の選択肢が在り得る。

 

 そんなマジックワードの意味を誠実に考え始めてしまったなら、その人は無限に在り得る解釈を一つ一つ吟味しなければならなくなる。

 

 人間の情報処理能力も有限だ。無限の選択肢を全て吟味することはできない。必ずどこかで情報処理能力―――思考力を使い果たしてしまう。そのようにして思考力を使い果たした状態に人を陥れるのがマジックワードを使う者の目的なのだろう*1

 

 だからこそ、マジックワードの意味について、自分で答えを出そうとしてはならないと上で書いた。貴重な思考力をマジックワードのために浪費してはならない。

 

 果たしてこの考えが正しいのかは断言できないが、いずれにせよそう考えておけば、マジックワードに対処する上で助けになるのではないかと思う。

 

*1:実際には、マジックワード使用者自身も無意識にやっている場合が多いと思われる。

闇に呑まれるということ

 

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ 
汝が長く深淵を覗き込む時、深淵もまた等しく汝を覗き込んでいる

 

 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ善悪の彼岸」より。

 

 中二度の高さから(勿論、それだけではないけれど)、あらゆる創作物に引用されているため、このフレーズを目にしたことのない人は少ないだろう。

 

 「羊たちの沈黙」を書いたトマス・ハリスに情報を提供したり、神戸連続児童殺傷事件のプロファイリングを行ったことで知られる元FBI捜査官ロバート・K・レスラーの座右の銘でもある。

 

 この言葉は、敵と対峙した際、憎悪や恐怖に呑みこまれて理性を失ってしまうことを戒めている。

 

 白鯨モビィ・ディックに対する復讐心のあまり、エイハブ船長は狂気の怪物となり果てた。あなたは決して同じ道を辿ってはいけない。

 

 おそらく、ほとんどの人がそんなメッセージをこの言葉から受け取っていると思われるが、今回はそこからもう少し掘り下げて解釈し直してみたい。

 

闇とは何か

 

 深淵とは何か。深淵とは底を見通せない深い闇のことだ。では闇とは何か?

 

 多くの人が闇を憎悪や憤怒、怨恨など負の精神活動のことだと考えている。しかし、闇は闇に過ぎない。そこには何もない。善悪もない。かといって虚無というわけでもない。

 

 闇とは不確定性のことなのだと思う。 何があるのか分からない、何があるのか確定していない。その確定していないこと自体が闇だ。

 

 だから闇を扱う時は心してかからなければならない。不確定だからこそ、人は闇に自らが見たいものを見出してしまえる。逆を言えば闇に見出された何かは、必ず、それを見出す瞬間の自分自身に規定されてしまっている。

 

 見るもおぞましい怪物と対峙している時、あなたが闇に見出すものは何である可能性が高いだろうか?

 

 十中八九、心に渦巻く恐怖や憎悪や憤怒を闇に映し出すこととなるだろう。そんな状況で暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことが出来るのは、ごく一部の強靭な精神力を持つ者だけだ。

 

 そして 最も恐ろしいのは、闇に「見出した」はずの何かを「そこに最初からあった」と錯覚してしまうことだ。この錯覚は人を更なる暗黒の淵に叩き落とすため、最大限の注意を払って回避する必要がある。

 

闇に呑まれるということ

 

高学歴な男性と低学歴な女性が結婚する例は多いが、高学歴な女性が低学歴な男性と結婚する例は滅多にない

 

 こんな情報を提示されたとする。これは客観的な事実だ。確定したことだ。

 

 だが、何故、こんな事実が成り立つのか、ということを考えるとき、そこには不確定性の闇が広がっている。

 

 ミソジニー女性嫌悪)に囚われた者は、「女が高学歴の男にしか目を向けないからだ。女はあさましい、身の程をわきまえろ」と言うだろう。

 

 一方で、ラディカル・フェミニスト(女性優遇論者)は、「男が低学歴の女にしか目を向けないからだ。男は自分より弱い者が好きなサディストだ」と言うだろう。

 

 どちらも不確定性の闇に彼らが「見出した」答えだ。彼ら自身のエゴの投影だ。そして何より恐ろしいのは、彼らが自らのその答えを自分自身が「見出した」ことに気づけていない点だ。彼らは自分の答えを「そこにあった」と錯覚している。

 

 この錯覚のために、彼らは無意識のうちに自身のエゴを他者に押し付けることとなる

 

 自分の主観的な解釈だと分かっていれば他者に主観を押し付けないよう弁えることができる。しかし、その答えが自身のエゴとは関係なく、客観的な事実だと思い込んでしまったならば、そうはいかない。

 

 世界中の誰もが、同じ考えを共有しなければならないと思ってしまうだろう。共鳴しない者は、啓蒙するか排除するべきだと思ってしまうだろう。その考えがエゴにまみれた主観的な解釈に過ぎないというのに関わらず。

 

 それが闇に呑まれるということなのだと思う

 

闇との付き合い方

 

 どれだけ科学が発展し、どれだけ哲学が真理の追究を押し進めたところで、不確定性の闇は永遠につきまとう。闇とは決して手をきることができない。闇は、うまく付き合っていかなければいけない相手だ。

 

 しかし、人間は本能的に闇=不確定性を忌避する。何故、人が占いを愛するかというと不確定性を少しでも排除したいからだ。

 

 「気味の悪さ」という感覚には不確定性への嫌悪が潜んでいる場合が多い。たとえばバットマンジョーカーに感じる気味の悪さは行動基準が理解不能で何をしでかすか分からないところからきている。もしジョーカーが単純に金で動く存在だったらあそこまでの瘴気を醸し出すことはなかっただろう。

 

 人は闇を排除したがる。それはいい。正しい手続きで排除するのであれば。しかし、そこにあるはずの闇に気付いていないだけ、あるいは見なかったことにしただけなのに、「闇なんてないさ」と開き直ってしまうことは危険だと思う。

 

 カルト宗教に抗議しようとしてそのまま信者になってしまうような人は、闇の存在に気付いてこなかった、または見ないことにしてきた人で、闇との適切な関わり方を知らない人がほとんどなのだろう。

 

 大事なのは、闇を視界から排除することではない。そこにある闇の存在を認識すること、その時、自分が闇を見つめていることに自覚的であること、そして闇を見つめている自分を見つめること(自身が抱えるバイアスを十分に把握すること)だ

 

 時には積極的に闇と関わらなければならない時もあるだろう。闇に何かを見出すこと自体は悪ではない。闇に何かを見出すことを一切止めてしまうなら、あらゆる可能性は閉ざされるし、何も新しいものは生まれてこなくなってしまう。仮説を立てることが許されない世界はどうなってしまうのか想像してみればいい。

 

 だから、闇に何かを見出すことを否定する必要は全くない。ただ、見出したものに関して「あくまで見出したに過ぎない」という自覚は常に持ち続けなければならないし、決して、最初からそこにあったと錯覚してはならない*1

 

 それが闇に呑まれないための鉄則だと思う。

 

*1:もちろんこの記事の内容に関しても。

教養主義の虚しさ

 

 「教養主義」も一筋縄ではいかない言葉だ。

 

 西洋と日本で捉え方が異なる上、リベラル・アーツ主義、人文主義、科学主義、主知主義……etcなど、やたら細分化していて、真面目に理解しようとするなら、それなりの覚悟が必要になる。

 

 こだわっても埒が明かないので、とりあえず、この記事における教養主義は「お前、これ知らないの?」「お前が好きなそれ、これと比べたら低級だぜ」といったマウンティングのことくらいに思って下さい。 

 

英雄たちと食い逃げ犯

 

アタゴオル玉手箱 全9巻

アタゴオル玉手箱 全9巻

 

 

 アタゴオル玉手箱は、ますむらひろしによるどこかノスタルジックな世界観を基調としたファンタジーコミックだ。まずは、今回の記事内容に関連する「砂漠の勝利」というエピソードのあらすじ紹介を。

 

 かつて大陸を統一した、歴史上の人物である、蠍歯王の似顔絵大会が開かれた。開催主は考古学者の森鳥博士で、1等の賞金は金貨10枚という破格の額だった。

 

 蠍歯王は「顔無し王」の異名を持つ。何故なら、彼は自身の顔を一切後世に残さなかったからだ。どの歴史書に描かれた彼の姿にも、その顔だけは書き込まれていなかった。

 

 似顔絵大会で優勝したのはアタゴオル森のパンツだったが、自分も似顔絵を送っていたヒデヨシは納得がいかない。

 

 かくしてヒデヨシはパンツとテンプラを連れ出して、抗議のため砂漠に住む森鳥博士の下へと向かうことにした。 

 

 そして森鳥博士と出会い、一行は、蠍歯王が何故、自らの顔を書物に記録させなかったかを知ることとなる。

 

 蠍歯王は砂嵐を操って「勝利の姿」を浮かび上がらせる機械を発明し、そこだけに自分の顔を記録させていたのだった。

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 砂嵐に浮かぶ蠍歯王の姿。蜷皮河の戦いで勝利した時のもの。

 

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 また、その機械には蠍歯王の姿だけでなく、蠍歯王よりも後の時代に活躍した英雄たちの姿も記録してあった。

 

 蠍歯王は、自身が味わったような「苦しみの果ての勝利」を手にした者の姿を記録し続けるよう、機械を各地に遺していたのだった。

 

 博士はそこで一つ謎があると言った。その時、折よく砂嵐が何かの姿を浮かびあがらせ始めた。博士は浮かび上がった姿を指して「あれじゃよ」と言った。

 

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  驚いたことに、それはヒデヨシが5年前、餅つきウドン屋で食い逃げをした時の姿だった。

 

何ぜこんな男が歴史的な勝利の砂漠に記録されてしまったんだ!? ワシには理解できん!!

 

 食い逃げ男の正体がヒデヨシだと気づき、困惑と憤りを隠せない森鳥博士。その言葉に対して、パンツが紫煙をくゆらせながら答える。

 

カタロ王が片耳を失いながらやっと龍を倒した時の喜びや、蠍歯王がたくさんの苦しい戦いの果てに手に入れた喜びーーー

そうした勝利の喜びと同じ位の喜びをヒデヨシはーーーウドンの食い逃げで感じられるのです

 

 このエピソードは個人的にアタゴオルシリーズの中でも一番好きなものだ。ヒデヨシという破天荒なキャラクターの魅力と本質がよく分かる。

 

 この話から学べるのは、喜びや悲しみといった主観的な感覚の質は、必ずしも、その感覚を引き起こした何かによって左右されるわけではないということだ。

 

 英雄たちが歴史に残る偉業を達成した際に手に入れた喜びと、食い逃げ犯がウドン屋の店主から逃げ切った時の喜び。どちらが本人にとって素晴らしい喜びなのか、どちらがより強く、鮮やかで、輝かしい喜びなのか外から量ることはできない。

 

 偉業と食い逃げには社会的な価値観において明らかに優劣があるが、それらが引き起こす感覚にも同じような優劣が生まれるわけではない。

 

アイドルとベートーヴェン

 

 教養主義と聞くと、何か崇高なものを重視するスタンスのようで一般人には関係ない貴族の嗜みに思えてくるが、実は誰もが一度は陥ったことがあるものだと思う。あるいは苛まれたことも。

 

 たとえば、アニソンやアイドル系の音楽しか聴かない人を叩く洋楽厨は教養主義的と言える。

 

 サブカル界隈のマウント合戦は教養主義者同士の戦争だ。

 

 こうした人たちの心理を全く理解できない人はほとんどいないと思う。そこで考えて欲しいのは、何故、教養主義的な心理に陥るのか、ということだ。

 

 おそらく「相手の好む何かよりも、自分の好む何かの方が、より豊かな喜びを与えてくれるはずだ」という思い込みによるところが大きいのではないか。もしそうだとしたら、その教養主義的な考え方は虚しい。

 

 確かに、素人がpixivに上げる美少女のアニメ絵はルノワールの「可愛いイレーヌ」と比べれば経済的、歴史的な価値基準において遥かに卑小かもしれない。

 

 トーマス・マンの「ベニスに死す」の前では、巷に溢れるBL二次創作小説なんて二束三文の価値もないかもしれない。

 

 けれどやはり、ベートーヴェン交響曲第九(カラヤン指揮)に感激の涙を溢れさせるディープな音楽通よりも、実はネクタイを鉢巻がわりにして、モーニング娘LOVEマシーンを熱唱している、音楽のことなんて何もわかっちゃいない酔いどれ中年サラリーマンたちの方が、よっぽど歓喜に打ち震えているのかもしれないという意識は、いつも心に留めておくべきではないかと思う。 

 

 最後に念のため言っておくと、先人の積み重ねてきた知識に敬意を払い、教養を深めることに価値がないと言いたいわけではありません。

 

 どんな作品でも受け取り手の内面における主観的な価値は不可侵である、という話でした。

 

「人はパンのみに生きるにあらず」と言うけれど

 

 「人はパンのみに生きるにあらず」は過度な物質至上主義を戒める時によく使われる言葉だ。

 

 パンを物理的な富と解釈すると、「人間は物理的な富だけでは生きていけないのです、精神的な富の大切さを意識しましょう」、といった意味になる。

 

 実のところこれは誤用で、本当は「人はパンのみに生きるにあらず、人が生きるのは神の口から出る一つ一つの言葉による」であって、「人は神様のお言葉によって生かしてもらっているのですよ」と言う宗教的な意味合いになるのだけれど、今回、それはどうでもいい。

 

 「人はパンのみに生きるにあらず」。確かにそうだと思う。

 

 けれど、だからといって「精神的な富を重視しましょう」と続けてしまうことには、かなり抵抗がある。

 

 むしろ今の時代、「人はパンのみに生きるにあらず、しかし人々よ、パンのみに生きなさい、さすれば天国への扉は開かれる」と言うべきなのではないかと思う。

 

 今の時代、ほとんどの人は、もう物理的には十分豊かな境遇にいると思う。いや、世界を見渡せばいくらでも餓死する人はいるけれど、少なくとも日本に住んでいてtwitterやブログをやっているような人たちの場合は。

 

 インターネット上には苦しみを抱えた人たちが溢れ返っている。そして、そうした人たちの苦しみはほとんど精神的なものだったりする。精神的な富に飢えていて、だから苦しい。物理的な要素にだけ幸福の価値基準を置けたらそうした人たちの苦しみはなくなるのではないかと思う。

 

 「じゃあ、拝金主義で金儲けばっか考えてて、金のためにいろんなものを傷つけたりするクソ野郎どもはどうなんだ。人間は精神的な豊かさを追い求めるべきなんじゃないのか」

 

 と思う人がいるかもしれないけれど、その拝金主義な人たちが何故、必死になって金儲けをするかというと、精神的な富への飢えによるところが大きい。

 

 必死になってお金を稼ぐ人たちが何故お金を欲しがるかというと、「あなたはお金をたくさん稼ぐ能力があるのですね」と周囲に認めて欲しかったり、マウンティングしたかったりといった精神的な要素を求めている部分が大きく、お金がもたらす物理的な富自体を求めているわけではない。

 

 もし彼らがお金を稼ぐことを通して得られる精神的な要素への執着を捨て去った時、彼らはそれ以前と同じくらい金儲けに腐心するだろうか? 多分、しない。

 

 最低限、自身が快適に生存できる程度の物理的な富を得られたらそれで満足するし、それ以上は稼ごうとしないだろう。人間は怠惰な生き物だから。

 

 本当に物理的な要素だけにフォーカスして生きている人は、おそらくある程度の物理的な富さえあったなら、もうそれで満足できてハッピーになれるのだと思う。きっとそういう人は、自分がぼっちだったり、ブスだったりすることについて悩まない。

 

 だから、「人はパンのみに生きるにあらず」と言うけれど、今の時代、パンのみに生きられる人の方が幸せだと思う。

 

 けれど、いくらこんな風に理屈を並べたって「パンではない何か」への執着を捨てることは容易ではないし、それだからこそ、インターネット上において苦しんでいる人たちの姿は今日も明日もそこかしこに溢れ返り続けるのだろうと思う。

 

宗教が入り込みやすい場所

 高校野球をやっていた頃の話。

 

 ある時、監督が「ムチ運動」なる概念を提唱しだした。

 

 曰く、「いいスローイングができている選手の腕はムチのようにしなやかに波打っている。つまり、腕をムチのように波打たせればいいスローイングができる! みんな腕をムチのように波打たせる練習をしなさい」

 

 とのことだった。

 

 純粋な選手たちは監督の言葉を信じて必死に腕をぐにゃぐにゃ波打たせていた。その結果、どうなったかというと、スローイングが向上した選手はいなかったし、むしろ悪化した選手がかなり出てきた。

 

 中学時代、地区大会でも上位に入るピッチングをしていた選手が、そこらへんの女の子が遊びでボールを投げるレベルより酷くなってしまった例もあった。

 

 けれど、誰もムチ運動とムチ運動を提唱した監督に対して疑いの目を向ける者はいなかった。

 

 スローイングが悪くなればなるほど、逆に「ムチ運動ができていないからだ」「もっとムチ運動を練習しなければ」という思考に陥って、さらなる深みへと落ちていった。

 

 冷静に考えればスローイングにおいて重要なことは、投げたボールを目標から外れないように届かせる「正確性」と投げ始めてから目標に届くまでの「速さ」であって、それらがしっかり確保されていれば、どんなフォームで投げようが構わない。

 

 ムチ運動というのはフォームの問題であり、外見の問題であり、本質的に重要な正確性及び速さとは無関係だ。

 

 いや、無関係というのは間違いだ。何故なら、ムチ運動には、正確性と速さを大きく損ねる効果が備わっていたのだから。無関係ではなく、有害と言うべきだろう。

 

 ムチ運動を会得するために、選手は腕を脱力させて、脱力させた腕をぐにゃぐにゃと波打たせることに執心した。ぐにゃぐにゃ波打たせた状態を維持しながら、ボールを投げていた。

 

 いいスローイングになるはずがない。柔らかいものは力を伝えることができない。ニュートン力学の基本だ。体感的な話でも、金属バットをスポンジバットに変えてもっと大きなホームランが打てると考える人間はいないだろう。

 

 ムチ運動は腕をスポンジに変えることを目的とした概念だった。見た目は柔らかくしなやかになるかもしれないが、実質的なエネルギーの伝導効率は著しく下がっていった。

 

 監督という教祖がいて、ムチ運動という教義があって、選手という信者がいた。

 

 こうした宗教的な構造は色々な場所で見られる。こうした構造が生まれやすい場所というのがある。スポーツはまさにそうだ。

 

 何が正解なのかわかりにくい場所、多様な条件が絡まり合っている場所には宗教が入り込みやすい。

 

 スポーツにおいて、いい動きを身に着ける方法など、そう簡単に見つけられるものでは決してない。

 

 基本や型といったものは、どの競技においても存在する。どんな指導者でも「まずは基本と型を覚えなさい」と言う。基本も型も、誰もが身につけるべき再現性のある技術として確立されたものだ。だが、その基本や型を身に着けるために辿るべき道筋は人によって違う。

 

 人間は一様ではなく、筋肉の柔らかさもつき方も質も違うし、神経のつながり方も空間把握能力も一人一人違う。

 

 ある人にとってうまくいく方法であっても、ある人にとっては有害になる場合があるし、その逆もある。

 

 ある程度深くスポーツに取り組むと、無限に複雑な現実と格闘しながら地道に正解を探すしかない場面によく出くわすことになる。

 

 このような場所に宗教は入り込みやすい。

 

 何が正解か分からないから、何を言ったところで否定されにくい。結果として、何か「正解『らしさ』を纏ったもの」をぶち上げてしまった者勝ちになってしまう。

 

 重要なのは、それが正解であるかどうかはどうでもいいということだ。周囲に正解と思わせることが全てだから。

 

 そう、誰もが信じて疑わなかったムチ運動のように。それさえ会得できれば、いいスローイングができると誰も信じて疑わなかったムチ運動のように。

 

 スポーツは確かに宗教的な構造が成り立ちやすい場所だが、他にもそうした場所はいくらでもある。そもそも人生自体がそんなものではある。

 

どこにいってもこうした宗教的な構造から逃れることは無理なのではないかと思う。

 

 ただ、せめて自分自身がいる場所の宗教的な構造に対してはできる限り自覚的でありたいな、と思っている。