五月楼

一年中五月病。

争いを呼ぶバベルシステム

 

サイエンスでいうなら、生物の目的とは子孫を残すことなのだから、その目的に反する同性婚は積極的に否定されなければならない。 

 

 気心のしれた身内にこぼす程度ならいざ知らず、不特定多数に向けてこんなことを豪語しようものなら、大変なことになる。

 

 実際にtwitterで上の文章を書きこんでいた人はフルボッコにされていた。

 

 こうした発言は争いを呼びやすい。何故か?

 

 内容が内容だけに差別的だというのがあるけれど、今回、着目したいのはそこではなく、この発言の背景に潜んでいる争いを生みやすい構造。

 

 個人的にその構造のことをバベルシステムと呼んでいる。今回はそのバベルシステムが具体的にどういったものか、どうすればバベルシステムに囚われず不要な争いを避けられるかについて書いていきます。

 

 まず冒頭の発言について「サイエンス」という言葉について考えてみると、これは実は物凄く解釈の広い言葉。下手をすると人の数だけ異なる「サイエンス」があってもおかしくない。

 

 解釈の幅が広いということは、ある人の解釈とある人の解釈に大きな差が生まれやすいということ。解釈の幅が広い言葉を使う時は、自分の解釈をそのまま相手も同じように受け取ってくれるかというと、そんなことはない。

 

 そうした警戒心を持てないと、身の回りで争いが絶えなかったりする。

 

 何かを主張する時、何も考えずにこの例における「サイエンス」のような解釈の幅が広い言葉を正当性の根拠にするのは危険。

 

 この例の場合、「サイエンス」という言葉の意味はとても曖昧で、だからその分、多くの「私が考える最も正しいサイエンス」を掲げる人達が現れた。

 

 次に起こったのは、「私が考える最も正しいサイエンス」を掲げる人達同士の潰しあいだ。

 

 ある人は同性婚を否定したくて、「生物の目的は子孫を残すことだ」と言う主張に正当性を与えるべく「サイエンス」を持ち出した。

 

 ある人は同性愛者への差別に反発するため、子供を持てなかったり持ちたくないと考える個体が一定数現れるのが「サイエンス」においては当然だと主張した。

 

 どっちも同じ「サイエンス」。五文字の片仮名。けれどその意味するところは全く違う。つまるところ「サイエンス」なんて目的次第でどうにでも解釈できる曖昧な言葉。

 

 けれど当人たちは自分の掲げるサイエンスこそが真のサイエンスだと信じて疑わなかった。そして延々と潰しあいを繰り広げた。

 

 こうした形で人を争いに駆り立てる構造がバベルシステムだ。

 

 以上の内容を踏まえながらバベルシステムについて一言でまとめると、

 

 「何かを主張する時に、その主張の正当性を解釈の広い言葉に求めることで互いの解釈にズレが生じ、主観と主観のぶつかり合いが起きやすくなる構造」

 

 となる。

 

 争いの根底にバベルシテムが潜んでいるケースはとても多い。特に物理要素よりも言語要素が主体のネット上における言い争いにおいては。

 

 では次にどうやってバベルシステムを回避するかについて。

 

 争いが起きそうな時、あるいはまさに争っているその時、まずは自身がバベルシステムに囚われていないか疑うことが第一歩。

 

 そしてバベルシステムに囚われている可能性があると思ったら、上述の例における「サイエンス」に該当する言葉を見極めること。

 

 具体的には、主張の正当性に深く関わっていて、しかも解釈の幅が広い言葉がどれなのか考えることがとても大事。ここからは便宜的にそうした言葉を「バベルワード」として話を進めていきます。

 

 そしてバベルワードを把握したら、まずはその解釈について徹底的に自分と相手でどこがどう違うのかを比較すること。

 

 バベルワードについて、相手と自分が、何故そのように解釈したのか、どこで解釈にズレが生じたのか徹底的に掘り下げることが無益な争いを遠ざける。

 

 上述の例においても、まずやるべきは「サイエンス」の意味について解釈を共有することだったと思う。それを行わずに潰しあっても、お互いがお互いの「サイエンス」という「正しさ」を持っている限り、互いに折れることはなく議論は永遠の平行線をたどる。

 

 とにかくなりふり構わず「サイエンス」の解釈について共有することを目指せばよかったのだと思う。そのプロセスをすっ飛ばして潰しあうのは最悪。そのプロセスを経てなお潰しあうのは良い事ではないけれど、最悪と比べたら圧倒的にいい。

 

 一番いいのは共有に至ること。次にいいのは共有は不可能だと諦めて互いに棲み分けをすること。

 

 以上が現時点で自分が考え得るバベルシステム対策。

 

 ちなみにバベルシステムの語源については旧約聖書の「バベルの塔」に関する記述から。

 

 バベルシステムが適用できるケースは至るところに転がっているし、関連づけて考えられる題材も多いと思う。

 

追記:要するにバズワードの話。

 

co-qualia world

 クオリアの交換を成し得るなら、差別問題や紛争問題といった、人と人との間で起きる問題のほとんどが解決するような気がする。

 

 もし、以下のような施設があったら社会の様相は激変するはず。

 

 図書館に似たシステムだが、収集してあるのは、書物ではなくクオリア。利用者は、その施設にある特殊な装置を使用することで、いつでも好きなクオリア追体験できる。

 

 クオリア追体験は、自身の記憶、人格を残したまま仮想現実を体験することとは全く異なる。

 

 追体験の最中は、元の人間としてのアイデンティティは全て忘却し、記憶、人格、肉体の全てがクオリアの主と同じになる。イメージとしては生まれ変わりに近い。

 

 収集されているクオリアには、様々な種類がある。

 

 出産を間近に控えた妊婦のクオリアサヴァン症候群の天才ピアニストのクオリア、 どうしても線路に飛び込むことを躊躇う自殺志願者のクオリア臨死体験者のクオリア、猟奇殺人鬼のクオリア

 

 アウシュヴィッツ収容所で一切の呵責なくユダヤ人の子供たちをガス室送りにする一方で、家に帰れば愛情深い父親として振る舞うナチ将校のクオリア

 

 「笑って散ってゆきます。お母さんも泣かずに喜んでください」と遺書にしたためる神風特攻隊少年兵のクオリア。そして、その少年兵が今まさに敵空母の甲板へ特攻せんとする瞬間のクオリア

 

 日本軍の特攻作戦に狂気をみて戦慄するアメリカ兵のクオリア

 

 入浴中、黄金の王冠に不純物が混入されているか確かめる方法を閃き、そのまま裸で「ユーリカ!(わかったぞ)」と叫びながら街を走り回るアルキメデスクオリア*1

 

 難聴という絶望の淵から這い上がり、交響曲第九を書き上げるヴェートーヴェンのクオリア

 

 何不自由のない生活を送りながらも、生への不安と死への恐怖に駆り立てられ、苦悩の果てに全てを捨てて出家するゴータマ・シッダルタのクオリア。そして彼が悟りを開き、ブッダと初めて名乗った時のクオリア。涅槃へと旅立つ時のクオリア

 

 ありとあらゆるクオリアが施設には揃っていて、アクセスは自由にできる。

 

 このような世界において、人々の意識は大きく変革するはず。

 

 全ての人々に共通して起きる変化として、「結局、自分自身の立場からは逃れられない」という意識が生まれると予想する。

 

 そして、その次は誰もが、どうやってエゴとエゴの均衡をとっていくか、ということに目を向け始めると思う。それに伴って善悪の観念も霧散していくのではないか。

 

 男性と女性、富裕層と貧民、低学歴と高学歴、王と奴隷、親と子供など断絶のある者同士でクオリアを交換できたなら、それは互いを究極の形で理解することとなり、両者の間で争いはまず起きなくなる。 

 

 「自分は自分の立場・視点・エゴからは逃れられないし、相手は相手の立場・視点・エゴからは逃れられない」という意識を互いに持つことが出来たなら、両者が望む形で棲み分けができるし、どうしても仕方がない争い以外は避けられる。

 

 争いが起きたとしても、そこに怒りや憎しみ、一種の思考停止は生まれないと考えられる。「これは仕方ない戦いなのだ」と、悲しい共感の心を互いに持ちながら戦うこととなる。そして戦いが新たな戦いの火種となることはない。

 

  かなり設定が甘いけれど、とりあえずそんな妄想でした。

 

 今回はかなり希望的観測を交えて書いたけれど、逆に悲観的な想像で書いてみる必要もあると思った。

*1:たぶんこれ作り話だろうけれど

怪物の意志

ぼくをみて ぼくをみて ぼくのなかのかいぶつが こんなにおおきくなったよ

 

  この怪物はきっと、とんでもなく良心的なのか、それとも抜けているのか、どちらかなのだろう。普通、怪物は宿主にその存在を気づかせたりしないから。

 

 人は誰でも生きていく上で優越感を適切に補給できないとおかしくなる。「自分は負け犬だ」という意識に囚われている人は、それだけで精神的な苦痛を感じているし、判断力も低下しているものだ。

 

 他者の上に立ちたい、他者の這いつくばる姿を眺めながら勝ち誇ってみたい、甘美な優越をじっくり味わってみたい、という欲求は、大抵の人間が持っているものだと思う。さらに言うなら、睡眠欲、食欲、性欲と同列の生理的な欲求だとも思う。

 

 けれど、この欲求(以下、優越欲求とする)の存在を無理やり否定している人は、とても多い。

 

 理由は幾つか考えられるが、優越欲求をむき出しにしていると、周囲から敬遠されて結果的に自己の不利益につながることが一つにあると思う。

 

 誰だってプライドの高い傲慢な人間を快く思ったりはしないし、逆に謙虚な人間のことは賞賛する。謙虚な人間は無害なため、付き合う上で安心感がある。

   

 だから 人は優越欲求を隠す。それ自体はいいことだと思う。

 

 問題なのは、隠されているだけで、やはり存在する優越欲求を、「ない」、あるいは「ない状態が正しい」と信じてしまう純粋な人々がいることだ。

 

 彼らは、優越欲求との適切な付き合い方を知らない。 

 

 結果として、優越欲求をうまく解消できずに歪な形で蓄積させてしまう。そうすると何が起きるか。

 

 心の闇に巣食う怪物が大きくなる。

 

 怪物は誰の心の中にも宿っていて、いつも大きくなりたがっている。もし大きくなれたなら、宿主の心を食い破り、乗っ取ってしまえるから。

 

 バリバリ グシャグシャ バキバキ ゴクン

 

 怪物に心を乗っ取られた人は、冷静な判断が出来なくなり、自制心も失われる。時に破滅的な事態も引き起こす。

 

 さらに怪物の恐ろしい性質として、乗っ取った宿主の発言・行動を通して、他者の中に宿る怪物を目覚めさせ、大きくしてしまうことが挙げられる。

 

 怪物は怪物同士で互いを育てあって、大きくなる。

 

 大きくなった怪物に翻弄された人々は、互いに憎しみを募らせ、さらに怪物は大きくなり、また人々は憎しみを募らせる。

 

 インターネット上で、怪物に食べられてしまった人や、もう少しで食べられてしまいそうな人をよく見かける。いやリアルでもそうだ。さらに言うなら自分だって過去に何度も心を食い破られた経験があるし、これからだってあるだろう。

 

 今、自分の中にいる怪物は、出来るだけ人から見えないところに追いやっている。追いやった上で、出来るだけ丁重に扱っている。

 

 怪物の存在を初めて認識してから、ずっと怪物とのうまい付き合い方を試行錯誤してきたおかげで、今、自分の中の怪物はそれなりに大人しい。

 

 けれど、やはり、ブックマークコメントやtwitterで発言したログを見直していると、怪物の意志が気づかないうちに紛れ込んでいるな、と思う時がある。

 

 気をつけようとは思うが、こうして少しはガス抜きもさせてやらなければいけないのかな、とも思ったりする。

 

 あなたの中にいる怪物は、今、どのくらいの大きさですか?

 

 引用部の元ネタ↓ 

 

 

うちらの世界を批判することの虚しさ

 もうとっくに旬を過ぎた話題だけれど、うちらの世界について思ったこと、考えたことを。

 

 うちらの世界とは、要するに「閉鎖的な集団内で共有される価値観、世界観」のこと。言い換えるなら「井の中の蛙」にとっての井戸そのもので、否定的なニュアンスをもって使われる言葉だ。たとえば、

 

 アイスケースに侵入した現場写真をtwitterに上げて炎上する若者がいる。何故、そんな真似をしてしまうかというと、うちらの世界に閉じこもって外部の視線を意識できていないからだ、といった具合に。

 

 うちらの世界に生きる者は、仲間内でしか通用しない独善的な価値観に耽溺している。彼らは世間の常識に疎い。だから批判したくなる。

 

 しかし、この批判は虚しい。

 

 いくら批判したところで、彼らがうちらの世界から抜け出て、真っ当な視野を回復することは困難だろうし、うちらの世界に囚われた愚か者は次から次へと現れるもので、際限がないからだ。

 

 なんて理由で虚しいと言っているのではない。

 

 何故、虚しいかというと、誰だってうちらの世界からは逃れられないものだから。

 

 低学歴には低学歴の、高学歴には高学歴の、王には王の、料理人には料理人の、聖人には聖人のうちらの世界がある。

 

 どんなに自由な考え方、広い視野を持つ者であっても、結局は釈迦の掌上の孫悟空に過ぎない。人間の思考、想像力の範囲には限界がある。

 

 うちらの世界批判をする人達にはその視点が抜けている。

 

 「自分は物事を広く、正しく、多角的かつ自由に捉えられる。こいつらとは違うんだ、だから自分は批判して当然なんだ」

 

 幻想だ。

 

 かつては自分もこうした幻想に憑かれていた。

 

 ある時から特殊な場所に身を置くことになった。そこには自分の想像を超えた世界があった。そして自分は一人、その世界を受け入れることに失敗した。

 

 その世界の閉鎖性と均質性を徹底的に呪って日々を過ごした。人はもっと多様であって構わないはずだろう、何故、誰も気づかない。なんて狭い価値観に囚われた連中なんだ。そんな思いが黒く渦巻いていた。

 

 うちらの世界を批判する人々と同じ心理だ。

 

 うちらの世界が話題になって、各所で論考や論争がなされて、そんな一連の祭りを傍で眺めてみて。その流れで、うちらの世界を批判する人々を観察する機会に恵まれた。

 

 そこで見たのは、うちらの世界を批判する人々が寄り集まって、うちらの世界を形成する様子だった。酷く滑稽に思えた。

 

 自分も同じ罠に陥っているのだと悟った。

 

 そう気づいたとき、うちらの世界を憎み、呪うことに虚しさを覚えた。どこに行ったってうちらの世界はついてまわる。

 

逃げ出した先に楽園なんてありゃしねえのさ。辿り着いた先、そこにあるのはやっぱり『うちらの世界』だけだ。

 

 今の心境はこんな感じ。元ネタはベルセルク三浦健太郎先生ごめんなさい。

 

 おそらくはこれも一つの適応の形なのだろうと思う。正しいかどうかは分からないけれど、自分は以前よりも、直接的にも間接的にも、うちらの世界的なものに苦しまされなくなった。

 

 もしこの記事を読んでいる中に、うちらの世界を批判する気持ちが強い人がいたら、自分自身のうちらの世界を徹底的に見つめ直してみるといいかもしれない。批判する気持ちはおそらく減弱するし、心に余裕ができる可能性は高いと思う。批判は精神的な余裕を消耗するものだから。

 

 そんなところでした。それでは、また。

やっぱり科学と疑似科学の違いがわからない

 昔からずっと科学と疑似科学の違いについて考えているが、なかなか納得のできる答えが出ない。統計的、功利的な観点から分けることはできる。けれど、究極的に科学と疑似科学を分けることは出来ないのではないかと思う。

 

 少し長くて恐縮だが、まずはこのコピペを。

 

  あるニワトリ小屋で、飼育員が毎日、エサを決まった時間に同じ量だけを与えていた。


 飼育員は、非常に几帳面な性格だったらしく、何年間も正確に同じことをしていた。
 
 さて、小屋の中のニワトリたちは、なぜ、毎日 同じ時間に 同じ量のエサが放り込まれるのか、その原理や仕組みをまったく想像しようもなかった。が、とにかく、毎日、決まった時間に同じことがおきるのだ。

 

 いつしか、ニワトリたちは、それが「確実に起きること」だと認識し、 物理法則として理論化しはじめた。そして、その確実な理論から、関連する法則を次々と導き出していき、 重さや時間の単位も、エサの分配についての経済や政治の理論もすべて、 毎日放り込まれるエサを基準にして行われた。

 

 それは妥当なモノの考え方だ。 だって、それは「確実に起きること」「絶対的な物理法則」なのだから。

 

 しかし、ある日、ヒネクレモノのニワトリがこう言った。

 

「でも、そんなの、明日も同じことが起きるとは限らないんじゃないの?」


 そんなことを言うニワトリは、他のニワトリたちから袋叩きにあう。

 

「ばぁーか、なに言ってんだよ。いいか? この現象はな、この世界ができてから、ずーっと続いているんだよ。何十代も前のじいさんが書いた歴史書を読んでみろよ。それからな、この現象をもとにして書かれた理論、学術論文を ちゃんと読んでみろよ。みんな、矛盾なく成り立っているだろ? それに、実験による確認だって、きちんとされているんだよ! それを何の根拠もなく疑うなんてな。そういう無知から、擬似科学やオカルトが始まるんだ。おまえは、もっと勉強した方がいいぞ」

 

 しかし、ある日、不況の煽りをうけ長年働いた飼育員がリストラとなり、 ニワトリへのエサやりは、ズボラなアルバイトの役目となった。

 

 次の日、ニワトリたちが、何十代もかけて構築した科学のすべては吹っ飛んだ。

 

  人は科学を信じている。「科学的」という言葉に対する人々の信頼は厚い。

 

 しかし、このコピペを読んだ時、考えざるを得なかった。

 

 科学を信じていた大勢のニワトリたちと、疑問を抱いたヒネクレモノのニワトリと、どっちが本当に科学的な考え方をしていたか?

 

 自分にはどうしてもヒネクレモノのニワトリの方が科学的な思考をもっていたように思えてしまう。

 

 では大勢のニワトリとヒネクレモノのニワトリとどこに違いがあるのか?

 

 それはヒネクレモノのニワトリが、考えること疑問を持つことを止めなかったことだ。彼は思考停止しなかった。

 

 対して大勢のニワトリは思考を放棄している。訳知り顔のニワトリがヒネクレモノのニワトリを諭す時の言葉を見返すと、彼らが築き上げてきた科学に対して何の疑問も持っていないことが分かる。疑問を持たないということはそれ以上深く考えることができないということだ。思考停止している。

 

 こんなことを考えていると科学とは何かという話になる。

 

 自分は科学というのは疑問を持ち続け、考え続ける態度そのものなのではないかと思う。

 

 しかし科学をこう定義すると、世の中には科学的なものなどなくなってしまう。

 

 どんなものだって必ず何かの前提に基づいて存在している。物理法則でさえ、その物理法則を法則足らしめている前提への思考停止によって成立しているのだから。

 

 「太陽は東からのぼって西に沈む」という法則をみな信じているけれど、本当にそれは信用できるのだろうか? 地球が始まってから一度も太陽が西から昇ったことはないかもしれない。けれど、だからといって明日も太陽が東から昇るとは限らないだろうーーーというのが科学的な思考だと思う。

 

 でも、そんなことを言っていたらキリがない。キリがないからどこかで思考停止せざるを得ない。

 

 そういう意味で科学的なものは世の中には存在しないと思っている。思考停止した時点でそれは科学的なものではなくなってしまうから。

 

 本題に入る。

 

 疑似科学と科学の違いは何か? という話。

 

 ここから使う「科学」という言葉は、上で書いた意味での科学とは別物で、世間で広く使われている意味での科学。この記事の流れを汲むと「暫定科学」とでもして分けるべきなのだけれど、面倒なので「科学」と表記する。

 

 結論から先に言うと、どっちも思考停止に基づいているという点においては何も変わらないのかな、と。

 

 ただ、思考停止する位置の深さが違う。

 

 科学と疑似科学をはっきり分けるような仕切りは今のところないと思う。だが、現実には科学という枠組みと疑似科学という枠組みがはっきり独立して存在する、と広く信じられている。これを読んでいるあなただってそう信じているはずだ。そこで質問させてほしい。

 

 この位置より深いところで思考停止していたら科学、この位置より浅かったら疑似科学

 

 その「この位置」を決めているものは何なのだろうか? 

 

 自分には分からない。どこから科学? どこから疑似科学? 分からない。

 

 科学的な立場から疑似科学信望者を批判する人達は多い。だが、科学的な立場にいる人も、もっと深い位置まで思考を進めた何らかの存在の立場からみたら、疑似科学信望者のようなものではないか、と。

 

 ここで話を終わってもいいが、ここからは「この位置」について暫定的な自分の考えを書く。あくまで個人的な考えだけれども。

 

 多分、「この位置」を決めているのは結局のところそれぞれの感情なのだと思う。

 

 物理面、精神面、あらゆる観点から見て総合的に自分にとって一番得となるような、一番幸福感を与えてくれるような「この位置」を人は信じる。この点においては疑似科学信望者も“正常な科学的思考”をもつ人達も同じだ。

 

 その「この位置」が究極的に真実なのかどうかは関係ない。感情論だから。

 

 というのが個人的な結論。自分はそうした結論で思考停止している。

 

 あなたの思考停止位置はどこにありますか?

 

狼と鳩をわかつもの

もっとも「権利」なんていう発想自体 人間特有のものだろうがね

 

 寄生獣から引用。 

 

 考えてみれば人間だけが声高に権利を主張する。「権利」という言葉さえ持ち出せば、主張が通ると錯覚している面もある。

 

 飢えたライオンの目の前で「私には生きる権利があるんだ」なんて主張してたところで何の意味もないのに、人間社会ではそうした滑稽なシーンがよく見られる。

 

 おそらく権利というものは幻想に過ぎず、その幻想を裏で駆動しているシステムに目を向ける必要があるのだと思う。

 

狼の血

 

 狼は雄同士で喧嘩する時、負けが見えた方が相手に腹部を見せて降参宣言する。その時点で争いは終了し、追撃も行われない。だから狼同士の喧嘩は殺し合いにまで発展しないという。

 

 狼には強靭な顎と鋭い爪、牙がある。その気になれば赤子の手をひねるように相手の喉を食い破れるはずなのに、彼らはそうしない。何故か?

 

 そういう「お腹で決着ルール」があった方がお互い損失が少なくてすむし、結果的に利益にもつながるからだ。

 

 権利や法もこれと同じようなものだと思う。

 

 誰かと誰かのエゴがぶつかりあった時、もし両者が一切引かなかったら、最終的には底の見えない泥仕合となる。負けた方は全てを失い、勝った方も甚大なダメージを受ける泥仕合に。

 

 そこで、予めお互いがどこかで妥協し合って痛み分けした方がいいと先人は考えたのだろう。最初はそうやってエゴとエゴの最適な均衡点が見つけられてきたのだろうし、その均衡点に人間は「権利」とか「法」とか「倫理」と言った名前をつけて尊んできたのだと思う。 

 

 ある種の神聖性、不可侵性を纏わされている「人権」や「尊厳」といった概念もおそらく同じで、やはり、裏には必ず誰かのエゴが潜んでいるし、いつだってエゴのぶつかり合いを折衝するための道具として持ち出されている。

 

 社会の正体はエゴの集合体であり、常に暴走しようとするエゴ同士が互いを牽制しあって相互抑制して結果的に平和が成立している。

 

 エゴの均衡が成り立つためには、暴力の均衡とそれによって生まれる相互利益が必要で、権利も法も後付の概念に過ぎない。

 

 逆を言えば、暴力の均衡と相互利益の成立しない場面では、権利も法もモラルも無力なのだと思う。

 

 飢えたライオンは人間の生きる権利を守ることで自分が何かの利益を得たり、守らないことで何かの損失を被るなんて考えたりしないのだから。

 

暴力的な平和の象徴

 

 日本のように何だかんだ高度に洗練された社会では、暴力が複雑に分散されていてたくさんのエゴが絶妙なバランスで均衡をとっている。小さな崩壊はよくあるにせよ、大きなエゴの暴走はそうはない。

 

 だから日々安心して暮らすことが出来る。少なくともヨハネスブルグや破綻直後のデトロイトよりは。

 

 そして大事なのは、権利という概念が先にあって人々がそれを守っているから平和なのではなく、暴力の均衡と相互利益が守られているから平和だということだ。そこを脳内で逆転させてしまった人が、ライオンに生存権を主張し始めたりするのだと思う。

 

 そして、そういう人は、往々にして権利を主張するだけでなく、自ら均衡を破り、破滅的な事態を引き起こす。彼らの頭には「均衡」つまり「落としどころ」の考え方がないから、エゴを無限に解放して、行き着くところまで行ってしまう場合が多い。個人的にそうなってしまった人は「鳩」なのだと思っている。

 

 鳩を籠に入れて喧嘩させると、際限なく殺し合う。相手が無様に倒れ伏してもその皮を剥ぎ続け、容赦のない追撃を加える。これが平和の象徴とされるか弱き存在の真実だ。

 

  鳩は自らを弱者と思っている。どこに行っても生態系ヒエラルキーの下位に甘んじるし、鋭い爪も牙もないが故に、広い場所で鳩同士喧嘩した際、逃げ出した相手を追い打ちして仕留めるほどの攻撃力もない。

 

 だから、鳩には自らの暴力を抑制しようなどという発想は生まれない。暴力の均衡を探ることの重要性も理解できない。条件が整ったら無限にエゴと暴力を解放してしまう。

 

 人間も、自然界においては鳩と同じく、物理的な暴力を持たない弱者であり、基本的に己の暴力を抑制する発想を本能レベルでは持たない動物なのだと思う。

 

  実際、人間は容易に、「自分は弱い」「自分は虐げられている」という思いを、「だから自分は何をしてもいい」に転換して、落としどころの見えない過激な行動に走るものであって。

 

狼と鳩を分かつもの

 

 狼は、何故、「お腹で決着ルール」のような喧嘩の妥協点を見つけ出せるのか。それは狼が自らの持つ暴力の強さに自覚的だからだ。鋭い爪に牙。相手を簡単に殺傷できる力。 

 

 狼は自分の持つ暴力を恐れる。それがどんな破滅的な結果をもたらし得るか熟知しているからこそ、自らの暴力に抑制をかけることが出来る。

 

 暴力を恐れ、エゴの暴走を回避することで生まれる相互抑制と相互利益。相容れぬ他者との関係において、これらの要素に基づいた落としどころを常に探し続ける狼の方が、一見無害で平和的に見えるものの、状況次第では簡単に破滅の扉を開く鳩などより、よっぽど同じ社会で生きる隣人としては好ましいと思う。

 

あなたは鳩ですか? それとも狼ですか?

 

枠について

 自分にとって物凄く重要な概念がある。普段、その概念を思考のベースに置くことが多いし、おそらくは精神的な安定を負っている部分も少なくない。

 

 今回はその概念、「枠」について書いていきたいと思う。

 

 枠について説明する際、まずはこの質問をすることにしている。

 

 「あなたの生きている意味はなんですか?」

 

 きっと、そんなこと考えたことないよ、という人が大多数を占めるのではないかと思う。そして、それがおそらく一つの理想的な解答なのだろう。考えないですむなら、それに越したことはないから。

 

 この質問に対する絶対的な答えはない。人によって答えは変わってくるはず。

 

 たとえば、一家のお父さんだったら「家族のため」、熱心なお医者さんだったら「患者さんのため」、敬虔なクリスチャンだったら「神の命にしたがうため」といった具合に。 

 

  ちなみに自分は何も無いと思っている。

 

 誰もがいつかは死ぬし、死後数十年も経てば自分のことを覚えている者は誰もいなくなるし、数千年も経てば遺伝情報の欠片も残らない。

 

   よっぽどのことがない限り、数万年もすれば自分が生きた証など跡形もなくなる。

 

 もっと巨視的に考えていけば、ありとあらゆる人類の活動は無意味といえる。ベートーヴェンの第九もピカソゲルニカ万里の長城もアポロ月到着の栄光も一切の実体・記憶・記録はいずれ消滅していくのだから。

 

   だから、この世に絶対不変に価値のあるものなんてないし、何かに必要以上に囚われる必要もない。でもこういう考え方はあくまで自分の考えであって、これが真実かどうかの証明はできない。

 

 話を戻す。

 

 お父さんにとっての「家族」、熱血医師にとっての「患者さん」、クリスチャンにとっての「神」、自分にとっての「無」。これらを一歩ひいて眺めてみてほしい。共通点が見えてくるはず。

 

 全てに共通するのは、これらのおかげでみんな「生きている意味は?」と悩まないで済んでいるということだ。悩まないで済むと心は楽になる。

 

 こうやって疑問や悩みを頭から排除することで、心を楽にするような「何か」。それが「枠」だ。

 

 一見、全く別の物でも同じ「枠」だったりする。

 

 たとえば神を肯定するキリスト教と神を否定するニヒリズム。言っていることは逆だけれど、実は同じものだと思う。

 

 枠の観点からキリスト教ニヒリズムを並べて比較してみると、本質的に同じ効果を人間にもたらしている面が多い。

 

 他人との比較は、人間にとって苦しみを生む主要な因子の一つだ。

 

 そこでキリスト教では「神の前ではみな平等です」なんて言う。この価値観のおかげで、人は他人と自分を比べる苦しみを減らすことができる。

 

 ニヒリズムにおいては、この世は無なのだから、大統領だろうが乞食だろうが何も違いはなく、他人と自分を比べてもしょうがないということになる。

 

 「神がこの世をつくった」と信じられたなら、「この世界は一体、何なのだろう」などと悩まなくていい。

 

 「この世の一切は虚無だ」と信じられたなら、「この世界は一体、何なのだろう」などと悩まなくていい。

 

 このように枠は思考停止によって疑問を排除し、精神の安定を守ってくれる。

 

 枠には様々なものがある。

 

 「宗教」「国家」「家族」「恋愛」「経済力」「権力」「科学」「常識」etc……∞

 

 正しいのかどうかは別として、自分はこうした枠という切り口で人の心について考えることが多い。

 

 枠は自分にとって何かについて思考するときの道標であり、時に安心を求めるための経典となっている。

 

 そう、枠そのものが枠なのです。