五月楼

一年中五月病。

co-qualia world

 クオリアの交換を成し得るなら、差別問題や紛争問題といった、人と人との間で起きる問題のほとんどが解決するような気がする。

 

 もし、以下のような施設があったら社会の様相は激変するはず。

 

 図書館に似たシステムだが、収集してあるのは、書物ではなくクオリア。利用者は、その施設にある特殊な装置を使用することで、いつでも好きなクオリア追体験できる。

 

 クオリア追体験は、自身の記憶、人格を残したまま仮想現実を体験することとは全く異なる。

 

 追体験の最中は、元の人間としてのアイデンティティは全て忘却し、記憶、人格、肉体の全てがクオリアの主と同じになる。イメージとしては生まれ変わりに近い。

 

 収集されているクオリアには、様々な種類がある。

 

 出産を間近に控えた妊婦のクオリアサヴァン症候群の天才ピアニストのクオリア、 どうしても線路に飛び込むことを躊躇う自殺志願者のクオリア臨死体験者のクオリア、猟奇殺人鬼のクオリア

 

 アウシュヴィッツ収容所で一切の呵責なくユダヤ人の子供たちをガス室送りにする一方で、家に帰れば愛情深い父親として振る舞うナチ将校のクオリア

 

 「笑って散ってゆきます。お母さんも泣かずに喜んでください」と遺書にしたためる神風特攻隊少年兵のクオリア。そして、その少年兵が今まさに敵空母の甲板へ特攻せんとする瞬間のクオリア

 

 日本軍の特攻作戦に狂気をみて戦慄するアメリカ兵のクオリア

 

 入浴中、黄金の王冠に不純物が混入されているか確かめる方法を閃き、そのまま裸で「ユーリカ!(わかったぞ)」と叫びながら街を走り回るアルキメデスクオリア*1

 

 難聴という絶望の淵から這い上がり、交響曲第九を書き上げるヴェートーヴェンのクオリア

 

 何不自由のない生活を送りながらも、生への不安と死への恐怖に駆り立てられ、苦悩の果てに全てを捨てて出家するゴータマ・シッダルタのクオリア。そして彼が悟りを開き、ブッダと初めて名乗った時のクオリア。涅槃へと旅立つ時のクオリア

 

 ありとあらゆるクオリアが施設には揃っていて、アクセスは自由にできる。

 

 このような世界において、人々の意識は大きく変革するはず。

 

 全ての人々に共通して起きる変化として、「結局、自分自身の立場からは逃れられない」という意識が生まれると予想する。

 

 そして、その次は誰もが、どうやってエゴとエゴの均衡をとっていくか、ということに目を向け始めると思う。それに伴って善悪の観念も霧散していくのではないか。

 

 男性と女性、富裕層と貧民、低学歴と高学歴、王と奴隷、親と子供など断絶のある者同士でクオリアを交換できたなら、それは互いを究極の形で理解することとなり、両者の間で争いはまず起きなくなる。 

 

 「自分は自分の立場・視点・エゴからは逃れられないし、相手は相手の立場・視点・エゴからは逃れられない」という意識を互いに持つことが出来たなら、両者が望む形で棲み分けができるし、どうしても仕方がない争い以外は避けられる。

 

 争いが起きたとしても、そこに怒りや憎しみ、一種の思考停止は生まれないと考えられる。「これは仕方ない戦いなのだ」と、悲しい共感の心を互いに持ちながら戦うこととなる。そして戦いが新たな戦いの火種となることはない。

 

  かなり設定が甘いけれど、とりあえずそんな妄想でした。

 

 今回はかなり希望的観測を交えて書いたけれど、逆に悲観的な想像で書いてみる必要もあると思った。

*1:たぶんこれ作り話だろうけれど