魔法としての正義
自分の正義をしきりに力説する者すべてに、信頼を置くな!
―――フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
正義とは何か。誰も彼もが、その時々の都合に応じて、身勝手な正義の解釈を掲げ、己の利権を声高に主張する。従って、少なくとも普遍的な善悪の基準とは言えないだろう。
もしかすると、正義とは、誰かにかけてその心を支配する魔法や呪いのようなものではないか。
ある時そう思った途端、まるで指輪物語やゲド戦記の世界に迷い込んだかのような気分に陥り、不思議な昂揚感に囚われた。
それ以来、どうすれば効果的に正義の魔法を人にかけられるのか、どうすれば魔法にかけられずに済むのか、かけられた魔法を無効化する方法は果たしてあるのか、人と人との間で起きる様々な現象について、いつもそんな方向から考えている。
今回は自分が考えるところの正義について力説していきたい。
エゴの調整機構
生物は細胞の集合体であり、細胞の一つ一つはどれも「分裂して増殖していきたい」というエゴを持っている。しかし、全ての細胞が無分別に増殖し始めた暁には、細胞集団全体が共倒れして全滅することになる。
全身の細胞が癌細胞に置き換わったとして、生き続けられる生物はいない。
だから、それぞれの細胞は周囲と折り合いをつけるために、自らのエゴを抑制する。
細胞分裂にブレーキをかけるCDK阻害因子、分裂回数を制限するテロメア遺伝子、不要な細胞を間引くアポトーシス……etc
これらの仕組みは各細胞の増殖を適切なレベルまで抑制し、全体の調和を保っている。
人間社会の構造はこうした生物の在り方と相似形だ。
細胞が集まり、調和している状態が生物であるなら、個人が集まり、調和している状態が社会なのだと思う。
社会を構成する全ての個人が際限なくエゴを解放したなら、その社会は瞬時にディストピアと化すだろう。そこで、そうならないよう人も細胞と同じようにエゴを抑制することで、周囲と折り合いをつける。
細胞のエゴは、CDK阻害因子、テロメア遺伝子、アポトーシス等の仕組みによって抑制される。
では、人のエゴは何によって抑制されるのか?
人のエゴを抑えるのは罪悪感だ。罪悪感によって人のエゴは抑制され、逆を言えば罪悪感の心理的拘束から抜け出すことで、初めて、人は他者にエゴを押し付けることができる。
罪悪感は生得的なエゴの調整機構であり、人と人との関係性を決定する諸要素のうち最重要項目と言っても過言ではない。
正義とは
正義とは「罪悪感をコントロールする力を宿した何か」なのだと思う。
正義は人の罪悪感を制御することで、間接的にそのエゴの発現を制御する。正義の扱い方を熟知することは、人を支配する方法、そして人に支配されない方法を熟知することに等しい。
罪悪感を強化するのか、減じるのか。無に還すのか、あるいは怒りへと反転させるのか。誰に効き、誰に効かないのか、持続時間はどの程度なのか、解除条件は何なのか。
分類のアプローチ次第で無数の種類がある正義ではあるが、しかし、現実の場で運用されているものとしては、ほとんどが大きく二種類に分けられる。
一つは自己バフ型。所謂、大義名分。エゴを心おきなく解放したい時に、自身にかけることで罪悪感の縛りを解除するもの。
「神の名の下に貴様を火炙りにしてやる」
「イヤよイヤよも好きのうちってね^^」
「これから空爆してお前らのとこの民間人を数千人殺すが、それはお前らが、こちらの国の少年を3人も殺害したからだ」
もう一つはスペル型。相手の罪悪感を喚起・強化することで思考・行動の自由を奪い、エゴを抑え込む目的で使われるもの。
「もう会ってくれないの……? ねえ、何とか言ってよ!」
「殴ったね! 親父にもぶたれたことないのに!」
「この紋所が目に入らぬか!」
この二種類に大別できるというだけで、実際には、一つの正義が別々の立場にある者に対して、異なる効果を与えるようなケースもある*1。たとえば、
人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね……
という名言があるが、これは恩師の命を救えなかったブラック・ジャックの罪悪感を軽減するために、恩師本人である本間丈太郎が、死の間際、ブラック・ジャックに遺したものだ。
この言葉をブラック・ジャックではなく、生命科学の研究者に向けて投げかけたとしたら、全く逆の効果を生むことになる。
正義を上手く扱うためには、その正義が誰に対してどのような効果を及ぼすか、広い視野で把握していなければならない。ここに正義を扱うことの難しさがある。
また、正義は常に言葉の形態をとるとは限らない。上に挙げた紋所のような例もあるし、「雨に濡れた子犬」といったシチュエーションですら、見捨てようとした者に罪悪感をもたらす点から正義と言える。
正義の形も様々であり、そのこともまた、正義の扱い方を考えていく上で、問題を複雑化させる一因となっている。
数珠か十字架か
正義を扱う上で、特に見落としてはならない要素がある。それは内面化の深度だ。正義の魔力はその正義を内面化した者にしか通じないし、また、魔力の効き具合も内面化の深度に比例する。
たとえばドラキュラは十字架に弱いが、これは何故かというと、ドラキュラがキリスト教圏の怪物だからだ。ドラキュラはキリスト教という正義を強く内面化している。
ドラキュラは、自身が内面化しているキリスト教の価値観において、己の存在が邪悪であることを自覚している。それだからこそ、十字架を翳されることで、ドラキュラは強烈な罪悪感に悶え苦しむ。
しかし、キリスト教のキの字も知らない日本の妖怪に対して、十字架を振りかざしたところで、何の効果もないだろう。日本の妖怪には、日本の妖怪が内面化している正義をもって立ち向かわなくてはならない。たとえば数珠であったり、お経であったり。
決して、ろくろ首や一つ目小僧を前にして、必死に十字架を振り回すような醜態を晒してはいけない。
効果的に正義を運用するためには、事前準備として、正義の魔法をかけたい相手が、どのような正義をどの程度内面化しているのか把握しておく必要がある。それから適切な正義を選択して運用しなければならない。
また、どうしても特定の正義を使用することに固執するのであれば、場合によってはその正義を相手に内面化させる努力から始める必要があるだろう。
傘お化けを十字架で倒したければ、まず、傘お化けにキリスト教の教えを説き、洗礼を施さなければならない。
何を見るべきか
ここまで自分が考える正義について、エゴ、罪悪感との関係を軸に語ってきたが、この中で最も注視すべきなのは罪悪感だと思う。どうしても正義に目が行きがちではあるのだが。
罪悪感はエゴとも正義とも直接的に結びついており、上で語ってきたエゴ調整系における中心的な要素と言える。
どんな正義を内面化しているのか、内面化の深度はどれくらいか知りたければ、罪悪感を見るのが一番いいし、彼我のエゴの圧力差を測る際も、まずは罪悪感に着目するのがベストだと思う*2。
人間社会とは、至るところで、正義の魔法が七色の火花を散らす戦場のことだ。
そんな場所で無防備に立ち尽くしていたなら、一瞬で黒焦げとなりかねない。相手に魔法をかけることよりも先に、己が魔法にかけられずに済むための術を身に着けなければならない。
そのためにも、まずは自身の罪悪感がどのようなメカニズムで生成消滅しているのか把握し、それが行動にどう影響しているのか見極めていく必要がある。
そうして初めて、どの正義を捨て去り、どの正義を内面化し、どの正義をどのように駆使することで、より快適で生きやすい環境を構築できるのかが見えてくるものだと思う。