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五月楼

一年中五月病。

闇に呑まれるということ

 

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ 
汝が長く深淵を覗き込む時、深淵もまた等しく汝を覗き込んでいる

 

 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ善悪の彼岸」より。

 

 中二度の高さから(勿論、それだけではないけれど)、あらゆる創作物に引用されているため、このフレーズを目にしたことのない人は少ないだろう。

 

 「羊たちの沈黙」を書いたトマス・ハリスに情報を提供したり、神戸連続児童殺傷事件のプロファイリングを行ったことで知られる元FBI捜査官ロバート・K・レスラーの座右の銘でもある。

 

 この言葉は、敵と対峙した際、憎悪や恐怖に呑みこまれて理性を失ってしまうことを戒めている。

 

 白鯨モビィ・ディックに対する復讐心のあまり、エイハブ船長は狂気の怪物となり果てた。あなたは決して同じ道を辿ってはいけない。

 

 おそらく、ほとんどの人がそんなメッセージをこの言葉から受け取っていると思われるが、今回はそこからもう少し掘り下げて解釈し直してみたい。

 

闇とは何か

 

 深淵とは何か。深淵とは底を見通せない深い闇のことだ。では闇とは何か?

 

 多くの人が闇を憎悪や憤怒、怨恨など負の精神活動のことだと考えている。しかし、闇は闇に過ぎない。そこには何もない。善悪もない。かといって虚無というわけでもない。

 

 闇とは不確定性のことなのだと思う。 何があるのか分からない、何があるのか確定していない。その確定していないこと自体が闇だ。

 

 だから闇を扱う時は心してかからなければならない。不確定だからこそ、人は闇に自らが見たいものを見出してしまえる。逆を言えば闇に見出された何かは、必ず、それを見出す瞬間の自分自身に規定されてしまっている。

 

 見るもおぞましい怪物と対峙している時、あなたが闇に見出すものは何である可能性が高いだろうか?

 

 十中八九、心に渦巻く恐怖や憎悪や憤怒を闇に映し出すこととなるだろう。そんな状況で暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことが出来るのは、ごく一部の強靭な精神力を持つ者だけだ。

 

 そして 最も恐ろしいのは、闇に「見出した」はずの何かを「そこに最初からあった」と錯覚してしまうことだ。この錯覚は人を更なる暗黒の淵に叩き落とすため、最大限の注意を払って回避する必要がある。

 

闇に呑まれるということ

 

高学歴な男性と低学歴な女性が結婚する例は多いが、高学歴な女性が低学歴な男性と結婚する例は滅多にない

 

 こんな情報を提示されたとする。これは客観的な事実だ。確定したことだ。

 

 だが、何故、こんな事実が成り立つのか、ということを考えるとき、そこには不確定性の闇が広がっている。

 

 ミソジニー女性嫌悪)に囚われた者は、「女が高学歴の男にしか目を向けないからだ。女はあさましい、身の程をわきまえろ」と言うだろう。

 

 一方で、ラディカル・フェミニスト(女性優遇論者)は、「男が低学歴の女にしか目を向けないからだ。男は自分より弱い者が好きなサディストだ」と言うだろう。

 

 どちらも不確定性の闇に彼らが「見出した」答えだ。彼ら自身のエゴの投影だ。そして何より恐ろしいのは、彼らが自らのその答えを自分自身が「見出した」ことに気づけていない点だ。彼らは自分の答えを「そこにあった」と錯覚している。

 

 この錯覚のために、彼らは無意識のうちに自身のエゴを他者に押し付けることとなる

 

 自分の主観的な解釈だと分かっていれば他者に主観を押し付けないよう弁えることができる。しかし、その答えが自身のエゴとは関係なく、客観的な事実だと思い込んでしまったならば、そうはいかない。

 

 世界中の誰もが、同じ考えを共有しなければならないと思ってしまうだろう。共鳴しない者は、啓蒙するか排除するべきだと思ってしまうだろう。その考えがエゴにまみれた主観的な解釈に過ぎないというのに関わらず。

 

 それが闇に呑まれるということなのだと思う

 

闇との付き合い方

 

 どれだけ科学が発展し、どれだけ哲学が真理の追究を押し進めたところで、不確定性の闇は永遠につきまとう。闇とは決して手をきることができない。闇は、うまく付き合っていかなければいけない相手だ。

 

 しかし、人間は本能的に闇=不確定性を忌避する。何故、人が占いを愛するかというと不確定性を少しでも排除したいからだ。

 

 「気味の悪さ」という感覚には不確定性への嫌悪が潜んでいる場合が多い。たとえばバットマンジョーカーに感じる気味の悪さは行動基準が理解不能で何をしでかすか分からないところからきている。もしジョーカーが単純に金で動く存在だったらあそこまでの瘴気を醸し出すことはなかっただろう。

 

 人は闇を排除したがる。それはいい。正しい手続きで排除するのであれば。しかし、そこにあるはずの闇に気付いていないだけ、あるいは見なかったことにしただけなのに、「闇なんてないさ」と開き直ってしまうことは危険だと思う。

 

 カルト宗教に抗議しようとしてそのまま信者になってしまうような人は、闇の存在に気付いてこなかった、または見ないことにしてきた人で、闇との適切な関わり方を知らない人がほとんどなのだろう。

 

 大事なのは、闇を視界から排除することではない。そこにある闇の存在を認識すること、その時、自分が闇を見つめていることに自覚的であること、そして闇を見つめている自分を見つめること(自身が抱えるバイアスを十分に把握すること)だ

 

 時には積極的に闇と関わらなければならない時もあるだろう。闇に何かを見出すこと自体は悪ではない。闇に何かを見出すことを一切止めてしまうなら、あらゆる可能性は閉ざされるし、何も新しいものは生まれてこなくなってしまう。仮説を立てることが許されない世界はどうなってしまうのか想像してみればいい。

 

 だから、闇に何かを見出すことを否定する必要は全くない。ただ、見出したものに関して「あくまで見出したに過ぎない」という自覚は常に持ち続けなければならないし、決して、最初からそこにあったと錯覚してはならない*1

 

 それが闇に呑まれないための鉄則だと思う。

 

*1:もちろんこの記事の内容に関しても。