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五月楼

一年中五月病。

枠について

雑記

 自分にとって物凄く重要な概念がある。普段、その概念を思考のベースに置くことが多いし、おそらくは精神的な安定を負っている部分も少なくない。

 

 今回はその概念、「枠」について書いていきたいと思う。

 

 枠について説明する際、まずはこの質問をすることにしている。

 

 「あなたの生きている意味はなんですか?」

 

 きっと、そんなこと考えたことないよ、という人が大多数を占めるのではないかと思う。そして、それがおそらく一つの理想的な解答なのだろう。考えないですむなら、それに越したことはないから。

 

 この質問に対する絶対的な答えはない。人によって答えは変わってくるはず。

 

 たとえば、一家のお父さんだったら「家族のため」、熱心なお医者さんだったら「患者さんのため」、敬虔なクリスチャンだったら「神の命にしたがうため」といった具合に。 

 

  ちなみに自分は何も無いと思っている。

 

 誰もがいつかは死ぬし、死後数十年も経てば自分のことを覚えている者は誰もいなくなるし、数千年も経てば遺伝情報の欠片も残らない。

 

   よっぽどのことがない限り、数万年もすれば自分が生きた証など跡形もなくなる。

 

 もっと巨視的に考えていけば、ありとあらゆる人類の活動は無意味といえる。ベートーヴェンの第九もピカソゲルニカ万里の長城もアポロ月到着の栄光も一切の実体・記憶・記録はいずれ消滅していくのだから。

 

   だから、この世に絶対不変に価値のあるものなんてないし、何かに必要以上に囚われる必要もない。でもこういう考え方はあくまで自分の考えであって、これが真実かどうかの証明はできない。

 

 話を戻す。

 

 お父さんにとっての「家族」、熱血医師にとっての「患者さん」、クリスチャンにとっての「神」、自分にとっての「無」。これらを一歩ひいて眺めてみてほしい。共通点が見えてくるはず。

 

 全てに共通するのは、これらのおかげでみんな「生きている意味は?」と悩まないで済んでいるということだ。悩まないで済むと心は楽になる。

 

 こうやって疑問や悩みを頭から排除することで、心を楽にするような「何か」。それが「枠」だ。

 

 一見、全く別の物でも同じ「枠」だったりする。

 

 たとえば神を肯定するキリスト教と神を否定するニヒリズム。言っていることは逆だけれど、実は同じものだと思う。

 

 枠の観点からキリスト教ニヒリズムを並べて比較してみると、本質的に同じ効果を人間にもたらしている面が多い。

 

 他人との比較は、人間にとって苦しみを生む主要な因子の一つだ。

 

 そこでキリスト教では「神の前ではみな平等です」なんて言う。この価値観のおかげで、人は他人と自分を比べる苦しみを減らすことができる。

 

 ニヒリズムにおいては、この世は無なのだから、大統領だろうが乞食だろうが何も違いはなく、他人と自分を比べてもしょうがないということになる。

 

 「神がこの世をつくった」と信じられたなら、「この世界は一体、何なのだろう」などと悩まなくていい。

 

 「この世の一切は虚無だ」と信じられたなら、「この世界は一体、何なのだろう」などと悩まなくていい。

 

 このように枠は思考停止によって疑問を排除し、精神の安定を守ってくれる。

 

 枠には様々なものがある。

 

 「宗教」「国家」「家族」「恋愛」「経済力」「権力」「科学」「常識」etc……∞

 

 正しいのかどうかは別として、自分はこうした枠という切り口で人の心について考えることが多い。

 

 枠は自分にとって何かについて思考するときの道標であり、時に安心を求めるための経典となっている。

 

 そう、枠そのものが枠なのです。