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五月楼

一年中五月病。

教養主義の虚しさ

雑記

 

 「教養主義」も一筋縄ではいかない言葉だ。

 

 西洋と日本で捉え方が異なる上、リベラル・アーツ主義、人文主義、科学主義、主知主義……etcなど、やたら細分化していて、真面目に理解しようとするなら、それなりの覚悟が必要になる。

 

 こだわっても埒が明かないので、とりあえず、この記事における教養主義は「お前、これ知らないの?」「お前が好きなそれ、これと比べたら低級だぜ」といったマウンティングのことくらいに思って下さい。 

 

英雄たちと食い逃げ犯

 

アタゴオル玉手箱 全9巻

アタゴオル玉手箱 全9巻

 

 

 アタゴオル玉手箱は、ますむらひろしによるどこかノスタルジックな世界観を基調としたファンタジーコミックだ。まずは、今回の記事内容に関連する「砂漠の勝利」というエピソードのあらすじ紹介を。

 

 かつて大陸を統一した、歴史上の人物である、蠍歯王の似顔絵大会が開かれた。開催主は考古学者の森鳥博士で、1等の賞金は金貨10枚という破格の額だった。

 

 蠍歯王は「顔無し王」の異名を持つ。何故なら、彼は自身の顔を一切後世に残さなかったからだ。どの歴史書に描かれた彼の姿にも、その顔だけは書き込まれていなかった。

 

 似顔絵大会で優勝したのはアタゴオル森のパンツだったが、自分も似顔絵を送っていたヒデヨシは納得がいかない。

 

 かくしてヒデヨシはパンツとテンプラを連れ出して、抗議のため砂漠に住む森鳥博士の下へと向かうことにした。 

 

 そして森鳥博士と出会い、一行は、蠍歯王が何故、自らの顔を書物に記録させなかったかを知ることとなる。

 

 蠍歯王は砂嵐を操って「勝利の姿」を浮かび上がらせる機械を発明し、そこだけに自分の顔を記録させていたのだった。

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 砂嵐に浮かぶ蠍歯王の姿。蜷皮河の戦いで勝利した時のもの。

 

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 また、その機械には蠍歯王の姿だけでなく、蠍歯王よりも後の時代に活躍した英雄たちの姿も記録してあった。

 

 蠍歯王は、自身が味わったような「苦しみの果ての勝利」を手にした者の姿を記録し続けるよう、機械を各地に遺していたのだった。

 

 博士はそこで一つ謎があると言った。その時、折よく砂嵐が何かの姿を浮かびあがらせ始めた。博士は浮かび上がった姿を指して「あれじゃよ」と言った。

 

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  驚いたことに、それはヒデヨシが5年前、餅つきウドン屋で食い逃げをした時の姿だった。

 

何ぜこんな男が歴史的な勝利の砂漠に記録されてしまったんだ!? ワシには理解できん!!

 

 食い逃げ男の正体がヒデヨシだと気づき、困惑と憤りを隠せない森鳥博士。その言葉に対して、パンツが紫煙をくゆらせながら答える。

 

カタロ王が片耳を失いながらやっと龍を倒した時の喜びや、蠍歯王がたくさんの苦しい戦いの果てに手に入れた喜びーーー

そうした勝利の喜びと同じ位の喜びをヒデヨシはーーーウドンの食い逃げで感じられるのです

 

 このエピソードは個人的にアタゴオルシリーズの中でも一番好きなものだ。ヒデヨシという破天荒なキャラクターの魅力と本質がよく分かる。

 

 この話から学べるのは、喜びや悲しみといった主観的な感覚の質は、必ずしも、その感覚を引き起こした何かによって左右されるわけではないということだ。

 

 英雄たちが歴史に残る偉業を達成した際に手に入れた喜びと、食い逃げ犯がウドン屋の店主から逃げ切った時の喜び。どちらが本人にとって素晴らしい喜びなのか、どちらがより強く、鮮やかで、輝かしい喜びなのか外から量ることはできない。

 

 偉業と食い逃げには社会的な価値観において明らかに優劣があるが、それらが引き起こす感覚にも同じような優劣が生まれるわけではない。

 

アイドルとベートーヴェン

 

 教養主義と聞くと、何か崇高なものを重視するスタンスのようで一般人には関係ない貴族の嗜みに思えてくるが、実は誰もが一度は陥ったことがあるものだと思う。あるいは苛まれたことも。

 

 たとえば、アニソンやアイドル系の音楽しか聴かない人を叩く洋楽厨は教養主義的と言える。

 

 サブカル界隈のマウント合戦は教養主義者同士の戦争だ。

 

 こうした人たちの心理を全く理解できない人はほとんどいないと思う。そこで考えて欲しいのは、何故、教養主義的な心理に陥るのか、ということだ。

 

 おそらく「相手の好む何かよりも、自分の好む何かの方が、より豊かな喜びを与えてくれるはずだ」という思い込みによるところが大きいのではないか。もしそうだとしたら、その教養主義的な考え方は虚しい。

 

 確かに、素人がpixivに上げる美少女のアニメ絵はルノワールの「可愛いイレーヌ」と比べれば経済的、歴史的な価値基準において遥かに卑小かもしれない。

 

 トーマス・マンの「ベニスに死す」の前では、巷に溢れるBL二次創作小説なんて二束三文の価値もないかもしれない。

 

 けれどやはり、ベートーヴェン交響曲第九(カラヤン指揮)に感激の涙を溢れさせるディープな音楽通よりも、実はネクタイを鉢巻がわりにして、モーニング娘LOVEマシーンを熱唱している、音楽のことなんて何もわかっちゃいない酔いどれ中年サラリーマンたちの方が、よっぽど歓喜に打ち震えているのかもしれないという意識は、いつも心に留めておくべきではないかと思う。 

 

 最後に念のため言っておくと、先人の積み重ねてきた知識に敬意を払い、教養を深めることに価値がないと言いたいわけではありません。

 

 どんな作品でも受け取り手の内面における主観的な価値は不可侵である、という話でした。