五月楼

一年中五月病。

「人はパンのみに生きるにあらず」と言うけれど

 

 「人はパンのみに生きるにあらず」は過度な物質至上主義を戒める時によく使われる言葉だ。

 

 パンを物理的な富と解釈すると、「人間は物理的な富だけでは生きていけないのです、精神的な富の大切さを意識しましょう」、といった意味になる。

 

 実のところこれは誤用で、本当は「人はパンのみに生きるにあらず、人が生きるのは神の口から出る一つ一つの言葉による」であって、「人は神様のお言葉によって生かしてもらっているのですよ」と言う宗教的な意味合いになるのだけれど、今回、それはどうでもいい。

 

 「人はパンのみに生きるにあらず」。確かにそうだと思う。

 

 けれど、だからといって「精神的な富を重視しましょう」と続けてしまうことには、かなり抵抗がある。

 

 むしろ今の時代、「人はパンのみに生きるにあらず、しかし人々よ、パンのみに生きなさい、さすれば天国への扉は開かれる」と言うべきなのではないかと思う。

 

 今の時代、ほとんどの人は、もう物理的には十分豊かな境遇にいると思う。いや、世界を見渡せばいくらでも餓死する人はいるけれど、少なくとも日本に住んでいてtwitterやブログをやっているような人たちの場合は。

 

 インターネット上には苦しみを抱えた人たちが溢れ返っている。そして、そうした人たちの苦しみはほとんど精神的なものだったりする。精神的な富に飢えていて、だから苦しい。物理的な要素にだけ幸福の価値基準を置けたらそうした人たちの苦しみはなくなるのではないかと思う。

 

 「じゃあ、拝金主義で金儲けばっか考えてて、金のためにいろんなものを傷つけたりするクソ野郎どもはどうなんだ。人間は精神的な豊かさを追い求めるべきなんじゃないのか」

 

 と思う人がいるかもしれないけれど、その拝金主義な人たちが何故、必死になって金儲けをするかというと、精神的な富への飢えによるところが大きい。

 

 必死になってお金を稼ぐ人たちが何故お金を欲しがるかというと、「あなたはお金をたくさん稼ぐ能力があるのですね」と周囲に認めて欲しかったり、マウンティングしたかったりといった精神的な要素を求めている部分が大きく、お金がもたらす物理的な富自体を求めているわけではない。

 

 もし彼らがお金を稼ぐことを通して得られる精神的な要素への執着を捨て去った時、彼らはそれ以前と同じくらい金儲けに腐心するだろうか? 多分、しない。

 

 最低限、自身が快適に生存できる程度の物理的な富を得られたらそれで満足するし、それ以上は稼ごうとしないだろう。人間は怠惰な生き物だから。

 

 本当に物理的な要素だけにフォーカスして生きている人は、おそらくある程度の物理的な富さえあったなら、もうそれで満足できてハッピーになれるのだと思う。きっとそういう人は、自分がぼっちだったり、ブスだったりすることについて悩まない。

 

 だから、「人はパンのみに生きるにあらず」と言うけれど、今の時代、パンのみに生きられる人の方が幸せだと思う。

 

 けれど、いくらこんな風に理屈を並べたって「パンではない何か」への執着を捨てることは容易ではないし、それだからこそ、インターネット上において苦しんでいる人たちの姿は今日も明日もそこかしこに溢れ返り続けるのだろうと思う。