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五月楼

一年中五月病。

宗教が入り込みやすい場所

 高校野球をやっていた頃の話。

 

 ある時、監督が「ムチ運動」なる概念を提唱しだした。

 

 曰く、「いいスローイングができている選手の腕はムチのようにしなやかに波打っている。つまり、腕をムチのように波打たせればいいスローイングができる! みんな腕をムチのように波打たせる練習をしなさい」

 

 とのことだった。

 

 純粋な選手たちは監督の言葉を信じて必死に腕をぐにゃぐにゃ波打たせていた。その結果、どうなったかというと、スローイングが向上した選手はいなかったし、むしろ悪化した選手がかなり出てきた。

 

 中学時代、地区大会でも上位に入るピッチングをしていた選手が、そこらへんの女の子が遊びでボールを投げるレベルより酷くなってしまった例もあった。

 

 けれど、誰もムチ運動とムチ運動を提唱した監督に対して疑いの目を向ける者はいなかった。

 

 スローイングが悪くなればなるほど、逆に「ムチ運動ができていないからだ」「もっとムチ運動を練習しなければ」という思考に陥って、さらなる深みへと落ちていった。

 

 冷静に考えればスローイングにおいて重要なことは、投げたボールを目標から外れないように届かせる「正確性」と投げ始めてから目標に届くまでの「速さ」であって、それらがしっかり確保されていれば、どんなフォームで投げようが構わない。

 

 ムチ運動というのはフォームの問題であり、外見の問題であり、本質的に重要な正確性及び速さとは無関係だ。

 

 いや、無関係というのは間違いだ。何故なら、ムチ運動には、正確性と速さを大きく損ねる効果が備わっていたのだから。無関係ではなく、有害と言うべきだろう。

 

 ムチ運動を会得するために、選手は腕を脱力させて、脱力させた腕をぐにゃぐにゃと波打たせることに執心した。ぐにゃぐにゃ波打たせた状態を維持しながら、ボールを投げていた。

 

 いいスローイングになるはずがない。柔らかいものは力を伝えることができない。ニュートン力学の基本だ。体感的な話でも、金属バットをスポンジバットに変えてもっと大きなホームランが打てると考える人間はいないだろう。

 

 ムチ運動は腕をスポンジに変えることを目的とした概念だった。見た目は柔らかくしなやかになるかもしれないが、実質的なエネルギーの伝導効率は著しく下がっていった。

 

 監督という教祖がいて、ムチ運動という教義があって、選手という信者がいた。

 

 こうした宗教的な構造は色々な場所で見られる。こうした構造が生まれやすい場所というのがある。スポーツはまさにそうだ。

 

 何が正解なのかわかりにくい場所、多様な条件が絡まり合っている場所には宗教が入り込みやすい。

 

 スポーツにおいて、いい動きを身に着ける方法など、そう簡単に見つけられるものでは決してない。

 

 基本や型といったものは、どの競技においても存在する。どんな指導者でも「まずは基本と型を覚えなさい」と言う。基本も型も、誰もが身につけるべき再現性のある技術として確立されたものだ。だが、その基本や型を身に着けるために辿るべき道筋は人によって違う。

 

 人間は一様ではなく、筋肉の柔らかさもつき方も質も違うし、神経のつながり方も空間把握能力も一人一人違う。

 

 ある人にとってうまくいく方法であっても、ある人にとっては有害になる場合があるし、その逆もある。

 

 ある程度深くスポーツに取り組むと、無限に複雑な現実と格闘しながら地道に正解を探すしかない場面によく出くわすことになる。

 

 このような場所に宗教は入り込みやすい。

 

 何が正解か分からないから、何を言ったところで否定されにくい。結果として、何か「正解『らしさ』を纏ったもの」をぶち上げてしまった者勝ちになってしまう。

 

 重要なのは、それが正解であるかどうかはどうでもいいということだ。周囲に正解と思わせることが全てだから。

 

 そう、誰もが信じて疑わなかったムチ運動のように。それさえ会得できれば、いいスローイングができると誰も信じて疑わなかったムチ運動のように。

 

 スポーツは確かに宗教的な構造が成り立ちやすい場所だが、他にもそうした場所はいくらでもある。そもそも人生自体がそんなものではある。

 

どこにいってもこうした宗教的な構造から逃れることは無理なのではないかと思う。

 

 ただ、せめて自分自身がいる場所の宗教的な構造に対してはできる限り自覚的でありたいな、と思っている。