五月楼

一年中五月病。

うちらの世界を批判することの虚しさ

 もうとっくに旬を過ぎた話題だけれど、うちらの世界について思ったこと、考えたことを。

 

 うちらの世界とは、要するに「閉鎖的な集団内で共有される価値観、世界観」のこと。言い換えるなら「井の中の蛙」にとっての井戸そのもので、否定的なニュアンスをもって使われる言葉だ。たとえば、

 

 アイスケースに侵入した現場写真をtwitterに上げて炎上する若者がいる。何故、そんな真似をしてしまうかというと、うちらの世界に閉じこもって外部の視線を意識できていないからだ、といった具合に。

 

 うちらの世界に生きる者は、仲間内でしか通用しない独善的な価値観に耽溺している。彼らは世間の常識に疎い。だから批判したくなる。

 

 しかし、この批判は虚しい。

 

 いくら批判したところで、彼らがうちらの世界から抜け出て、真っ当な視野を回復することは困難だろうし、うちらの世界に囚われた愚か者は次から次へと現れるもので、際限がないからだ。

 

 なんて理由で虚しいと言っているのではない。

 

 何故、虚しいかというと、誰だってうちらの世界からは逃れられないものだから。

 

 低学歴には低学歴の、高学歴には高学歴の、王には王の、料理人には料理人の、聖人には聖人のうちらの世界がある。

 

 どんなに自由な考え方、広い視野を持つ者であっても、結局は釈迦の掌上の孫悟空に過ぎない。人間の思考、想像力の範囲には限界がある。

 

 うちらの世界批判をする人達にはその視点が抜けている。

 

 「自分は物事を広く、正しく、多角的かつ自由に捉えられる。こいつらとは違うんだ、だから自分は批判して当然なんだ」

 

 幻想だ。

 

 かつては自分もこうした幻想に憑かれていた。

 

 ある時から特殊な場所に身を置くことになった。そこには自分の想像を超えた世界があった。そして自分は一人、その世界を受け入れることに失敗した。

 

 その世界の閉鎖性と均質性を徹底的に呪って日々を過ごした。人はもっと多様であって構わないはずだろう、何故、誰も気づかない。なんて狭い価値観に囚われた連中なんだ。そんな思いが黒く渦巻いていた。

 

 うちらの世界を批判する人々と同じ心理だ。

 

 うちらの世界が話題になって、各所で論考や論争がなされて、そんな一連の祭りを傍で眺めてみて。その流れで、うちらの世界を批判する人々を観察する機会に恵まれた。

 

 そこで見たのは、うちらの世界を批判する人々が寄り集まって、うちらの世界を形成する様子だった。酷く滑稽に思えた。

 

 自分も同じ罠に陥っているのだと悟った。

 

 そう気づいたとき、うちらの世界を憎み、呪うことに虚しさを覚えた。どこに行ったってうちらの世界はついてまわる。

 

逃げ出した先に楽園なんてありゃしねえのさ。辿り着いた先、そこにあるのはやっぱり『うちらの世界』だけだ。

 

 今の心境はこんな感じ。元ネタはベルセルク三浦健太郎先生ごめんなさい。

 

 おそらくはこれも一つの適応の形なのだろうと思う。正しいかどうかは分からないけれど、自分は以前よりも、直接的にも間接的にも、うちらの世界的なものに苦しまされなくなった。

 

 もしこの記事を読んでいる中に、うちらの世界を批判する気持ちが強い人がいたら、自分自身のうちらの世界を徹底的に見つめ直してみるといいかもしれない。批判する気持ちはおそらく減弱するし、心に余裕ができる可能性は高いと思う。批判は精神的な余裕を消耗するものだから。

 

 そんなところでした。それでは、また。