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五月楼

一年中五月病。

やっぱり科学と疑似科学の違いがわからない

雑記

 昔からずっと科学と疑似科学の違いについて考えているが、なかなか納得のできる答えが出ない。統計的、功利的な観点から分けることはできる。けれど、究極的に科学と疑似科学を分けることは出来ないのではないかと思う。

 

 少し長くて恐縮だが、まずはこのコピペを。

 

  あるニワトリ小屋で、飼育員が毎日、エサを決まった時間に同じ量だけを与えていた。


 飼育員は、非常に几帳面な性格だったらしく、何年間も正確に同じことをしていた。
 
 さて、小屋の中のニワトリたちは、なぜ、毎日 同じ時間に 同じ量のエサが放り込まれるのか、その原理や仕組みをまったく想像しようもなかった。が、とにかく、毎日、決まった時間に同じことがおきるのだ。

 

 いつしか、ニワトリたちは、それが「確実に起きること」だと認識し、 物理法則として理論化しはじめた。そして、その確実な理論から、関連する法則を次々と導き出していき、 重さや時間の単位も、エサの分配についての経済や政治の理論もすべて、 毎日放り込まれるエサを基準にして行われた。

 

 それは妥当なモノの考え方だ。 だって、それは「確実に起きること」「絶対的な物理法則」なのだから。

 

 しかし、ある日、ヒネクレモノのニワトリがこう言った。

 

「でも、そんなの、明日も同じことが起きるとは限らないんじゃないの?」


 そんなことを言うニワトリは、他のニワトリたちから袋叩きにあう。

 

「ばぁーか、なに言ってんだよ。いいか? この現象はな、この世界ができてから、ずーっと続いているんだよ。何十代も前のじいさんが書いた歴史書を読んでみろよ。それからな、この現象をもとにして書かれた理論、学術論文を ちゃんと読んでみろよ。みんな、矛盾なく成り立っているだろ? それに、実験による確認だって、きちんとされているんだよ! それを何の根拠もなく疑うなんてな。そういう無知から、擬似科学やオカルトが始まるんだ。おまえは、もっと勉強した方がいいぞ」

 

 しかし、ある日、不況の煽りをうけ長年働いた飼育員がリストラとなり、 ニワトリへのエサやりは、ズボラなアルバイトの役目となった。

 

 次の日、ニワトリたちが、何十代もかけて構築した科学のすべては吹っ飛んだ。

 

  人は科学を信じている。「科学的」という言葉に対する人々の信頼は厚い。

 

 しかし、このコピペを読んだ時、考えざるを得なかった。

 

 科学を信じていた大勢のニワトリたちと、疑問を抱いたヒネクレモノのニワトリと、どっちが本当に科学的な考え方をしていたか?

 

 自分にはどうしてもヒネクレモノのニワトリの方が科学的な思考をもっていたように思えてしまう。

 

 では大勢のニワトリとヒネクレモノのニワトリとどこに違いがあるのか?

 

 それはヒネクレモノのニワトリが、考えること疑問を持つことを止めなかったことだ。彼は思考停止しなかった。

 

 対して大勢のニワトリは思考を放棄している。訳知り顔のニワトリがヒネクレモノのニワトリを諭す時の言葉を見返すと、彼らが築き上げてきた科学に対して何の疑問も持っていないことが分かる。疑問を持たないということはそれ以上深く考えることができないということだ。思考停止している。

 

 こんなことを考えていると科学とは何かという話になる。

 

 自分は科学というのは疑問を持ち続け、考え続ける態度そのものなのではないかと思う。

 

 しかし科学をこう定義すると、世の中には科学的なものなどなくなってしまう。

 

 どんなものだって必ず何かの前提に基づいて存在している。物理法則でさえ、その物理法則を法則足らしめている前提への思考停止によって成立しているのだから。

 

 「太陽は東からのぼって西に沈む」という法則をみな信じているけれど、本当にそれは信用できるのだろうか? 地球が始まってから一度も太陽が西から昇ったことはないかもしれない。けれど、だからといって明日も太陽が東から昇るとは限らないだろうーーーというのが科学的な思考だと思う。

 

 でも、そんなことを言っていたらキリがない。キリがないからどこかで思考停止せざるを得ない。

 

 そういう意味で科学的なものは世の中には存在しないと思っている。思考停止した時点でそれは科学的なものではなくなってしまうから。

 

 本題に入る。

 

 疑似科学と科学の違いは何か? という話。

 

 ここから使う「科学」という言葉は、上で書いた意味での科学とは別物で、世間で広く使われている意味での科学。この記事の流れを汲むと「暫定科学」とでもして分けるべきなのだけれど、面倒なので「科学」と表記する。

 

 結論から先に言うと、どっちも思考停止に基づいているという点においては何も変わらないのかな、と。

 

 ただ、思考停止する位置の深さが違う。

 

 科学と疑似科学をはっきり分けるような仕切りは今のところないと思う。だが、現実には科学という枠組みと疑似科学という枠組みがはっきり独立して存在する、と広く信じられている。これを読んでいるあなただってそう信じているはずだ。そこで質問させてほしい。

 

 この位置より深いところで思考停止していたら科学、この位置より浅かったら疑似科学

 

 その「この位置」を決めているものは何なのだろうか? 

 

 自分には分からない。どこから科学? どこから疑似科学? 分からない。

 

 科学的な立場から疑似科学信望者を批判する人達は多い。だが、科学的な立場にいる人も、もっと深い位置まで思考を進めた何らかの存在の立場からみたら、疑似科学信望者のようなものではないか、と。

 

 ここで話を終わってもいいが、ここからは「この位置」について暫定的な自分の考えを書く。あくまで個人的な考えだけれども。

 

 多分、「この位置」を決めているのは結局のところそれぞれの感情なのだと思う。

 

 物理面、精神面、あらゆる観点から見て総合的に自分にとって一番得となるような、一番幸福感を与えてくれるような「この位置」を人は信じる。この点においては疑似科学信望者も“正常な科学的思考”をもつ人達も同じだ。

 

 その「この位置」が究極的に真実なのかどうかは関係ない。感情論だから。

 

 というのが個人的な結論。自分はそうした結論で思考停止している。

 

 あなたの思考停止位置はどこにありますか?