五月楼

一年中五月病。

価値観だって生きている

 

風の谷のナウシカ(原作)のネタバレを含みます。

 

 学者によって諸説あるが、32億年ほど前に、初めて地球上に光合成をする生物が現れた。

 

 シアノバクテリアと呼ばれるその微生物は、それまで二酸化炭素と窒素が主流だった大気にせっせと酸素を放出し始めた。

 

 酸素は生命の源だと聞いて、そこに疑問を挟む者はまずいない。

 

 しかし32億年前の地球において主流派だった嫌気性生物たちにとって、酸素は自らの細胞を容易に酸化・分解してしまう毒以外の何物でもなかった。

 

 シアノバクテリアの大量発生によって大気には“猛毒”がまき散らされた。地球が始まって以来、最大の大気汚染。光化学スモッグフロンガスなんて目ではない、真の地球環境破壊だった。

 

 結果として起きたのは、阿鼻叫喚の大絶滅だ。

 

 しかし、そんな大激変を生き抜いた生物もいた。生き延びた生物達は酸素の毒性に適応したどころか、逆に有効利用する仕組みを獲得していた。

 

 そして、今、彼らの子孫が地球上で繁栄を謳歌している。その中には当然、人間も含まれる。

 

 環境が変化しないなら、自身も変わらなくていい。そこで足踏みしていればいい。

 

 しかし、環境は変化する。だから、自身も環境に合わせて変化してゆく必要がある。赤の女王に慈悲はない。

 

 本題に入る。

 

 価値観も生物として捉えるべきだと思う。

 

 心とは価値観という生物の集合体だ。

 

 心が安定した穏やかな状態を維持できていれば幸福とする。逆に心を構成する価値観が揺らぎ、心が不安定な状態を不幸とする。

 

 バブル時代のサラリーマン達は幸せだったはず。

 

 「努力すれば必ず報われる」

 「企業戦士は恰好いい」

 「経済的な富=幸福」

 

 などといった価値観が彼らの心の大部分を占めていた。

 

 当時のサラリーマン達は一生懸命働いた。時代もあって、日本は大いに経済成長していった。働けば働くほど豊かになって幸福な気分になれた。夢を追い続けられた。彼らの心は穏やかだった。

 

 そのままバブルが永遠にはじけなければよかった。そうすればサラリーマン達は永遠に変わらないまま幸せでいられたから。

 

 けれど現実は無慈悲で、バブルがはじけ、会社は軒並み倒産。「あんなに会社に尽くしてきたのに、あんなに頑張ったのに」なんて歯ぎしりと怨嗟の叫びが日本中を席捲した。

 

 シアノバクテリアが大気組成を変えることで、それまでの嫌気性の生物達は死に絶えた。

 

 バブルがはじけて、サラリーマン達の心を支えていた価値観も死に絶えた。サラリーマン達の心は引き裂かれ、砕け散り、絶望の闇が全てをのみ込んだ。

 

 環境の変化に適応できなかった結果だ。彼らの姿を見て、学ぶべきことは多い。やはり環境の変化に適応して価値観も柔軟に変えていくべきだろう。

 

 なんて上から目線で物を言える者は普通いない。そんなに簡単に価値観は変えられないから。

 

 風の谷のナウシカは、環境の変化に適応できない人々の悲しみを慰めるための物語だと思う。

 

 腐海が放出する毒素が世界を覆い尽くし、人類は滅びゆく寸前。

 

 そんな状況で、ナウシカは大冒険の果てに、人類の肉体を毒素に覆われた世界でも生きのびてゆけるよう変化させる科学技術を見つけ出す。

 

 ところが、結局のところ、彼女は人類の希望であるその科学技術を破壊してしまう。そこらへんの理由については解釈の余地があり、生命を人為的に操作することへの反発や、未来に人類は必要ないというペシミズムが理由として考えられるが、今回の記事内容とは関係がないため置いておく。

 

 肝心なのは、彼女が自分の価値観を変化させて環境に適応することを拒んだということだ。彼女はどうしても自らの価値観を捨てられなかった。

 

 せっかく人類が、愛する風の谷の人々が生き延びていける希望が見えたのに、彼女は自らの信念を貫き、滅びを選んだ。

 

 見方によっては、彼女はとんでもない愚か者だが、作中における彼女の描写はこの上なく美しく気高い。その姿は、「適応できない者」の在り方を肯定し、その悲しみを癒すために描かれたのではないかとさえ思える。

 

 腐海の毒の方が、実は清浄な空気だったという、皮肉な物語設定も象徴的だ。

 

 もし、シアノバクテリア登場以前の生物達に知能をもたせて、ナウシカを読ませたら、感激の涙をあふれさせるに違いない。

 

 ……いや、むしろ激怒するだろうか。俺たちだって変わりたかった。変わりたくて変わりたくて、でも変われなかったんだ、それをお前は! 変われるチャンスが目の前にあったのに! なんて。

 

 要するに、価値観そのものの価値は環境との関係性で評価されるものであり、絶対不変のものとして執着するべきではなくて。

 

 流動的な環境の変化に合わせてベストな価値観を常に探し続けていく姿勢が必要で。

 

 しかし口で言うほど簡単ではなく。

 

 突然、急激な変化、それも絶対に適応不可能なレベルの強烈な変化に襲われた時、人はどうすれば救われるのか? やはりナウシカのように開き直って胸を張るしかないのだろうか? 

 

 きっとそうなのだろうと思う。釈然としないものが少し残るけれども。